であるが、「芸術的」であるといふことと、「興行価値」があるといふことを、今日、どう区別してゐるかといふに、決して、日本の興行者の区別するやうに、その二つを、全然反対なものと解してはゐないやうだ。だから、大ていの劇場主は、「興行価値」なるものを頭におく時、作品が相当「芸術的」であつても、一向苦にしないのである。要するに見物は、芸術的なものをも、舞台に求めてゐるのだし、元来、興行価値そのものも、作品の特殊な内容形式によつて生れるものだといふことを知つてゐるからだ。つまり、寧ろ、「芸術的」な要素に、何が加へられてあるかを問題として、上演脚本を選ぶのである。従つて、脚本作者は、自分の芸術的天分に応じ、精いつぱいの力で、調子を下げるなどといふことは露ほども考へず、ただ「面白いもの」を書かうとする。この場合、その作者にとつて、「面白い」といふことは、いふまでもなく、「芸術的であると同時に興行価値がある」といふ意味なのだ。
 現在の日本では、「芸術的」といふことが、殆んど「六かしい」ことといふ意味に解され、また、実際、「面白くない」といふ意味にも解されすぎてゐる。さういふ「芸術的」も、あるにはあるで
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