といふものは、甚だ狭く、且つ、安定してないのだ。
 そこで、考へなければならぬことは、現在のままで行くと、日本の芝居は、早晩滅びるといふことだ。なぜなら、劇場に足を向けない人が次第に多くなり、劇場並に俳優は、その理由を正確に認識することができず、一時的の現象に目がくらんで、舞台は漸次堕落の方向をとり、遂に、「芝居でないもの」が劇場を占領することになることは明らかだからである。
 これまでわが国で発表された脚本の種類を分けてみると、第一、芸術的純粋さのために、その出来栄は兎も角、現在の商業劇場では全く上演不可能と思はれるもの、第二に、芸術的要素はありながら、一般の劇場でもやつてやれないことはないと思はれるやうなもの、第三に、全く劇場側の註文に応じて、所謂興行価値(?)のみをねらつたものと、大体この三つであると思ふ。ところで、今日の状態から推せば、第一、第三のものだけが、違つた意味で存在理由を認められ、第二のものは、次第に書き手が少くなるのではないかと思ふ。なぜなら、これこそ、誰しも注意を払はず、従つて、需要も少く、これによつて「身を立てる」ことができない有様だからだ。然るに、また西洋の側
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