品を演ずるなどといふことは、先づ有り得ないと見ていいのだ。
第一、古典劇をやるにしても、その割合は、巴里全体を通じて、一晩に、僅か二つ、多くて五つだ。その他は、悉く現代劇、しかも、わが国の新派劇程度のものは、どんなけちな劇場でも、決してやつてゐない。仮に、もう一層悪趣味なものがあつたにしろ、その悪趣味に交る「新鮮さ」を見逃してはならない。何が新鮮か。思ひつきがである。舞台の言葉がである。見た目がである。一歩譲つて、新鮮味更になしといふ奴でも、少くとも、旧くはないのだ。つまり、「現代の生活」から生れたものなのだ。
日本の芝居が、遅々として進まず、芸術的にも、風俗史的にも、旧態依然たる有様は、抑も何に基因するかといふ問題は、実に私も屡々――寧ろ常に――述べてゐるので、また今それを繰り返す気にはならぬが、結局、総ての劇場が、同一観客層――近代的教養とは没交渉な一階級――を相手に、いつまでも経営方針を立ててゐるからである。偶々新劇団と称するものがあつても、これは、その撰択する脚本の種類範囲からいつて、外国の前衛劇に近いものであるか、または、あまりに素人劇の幼稚さを出でないために、その観客層
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