あらうが、この誤解といへば誤解が、あらゆる方面から、今日の芝居を不振にし、下落させ、前途を暗くさせてゐる。商業劇場は、あまりに見物の「芸術慾」を無視し、新劇のグルウプが、昂然として見物の「疲労」を顧慮しない習慣はこれに原因するのだ。現在、その何れもが掴んでゐると信じる観客も、重ねて云ふが、近い将来に於て、劇場に背を向けるであらうし、新しい観客層は、断じて、現在の芝居に近づかうとはすまい。早く云へば、日本にも、改造、中央公論、乃至文芸春秋級の劇場が二つや三つあつても、もう今日では早くないと思ふがどうであらう。勿論、そこで、この三誌の創作欄に活字として発表されるやうな戯曲が、どしどし上演されなければならぬといふ意味ではない。恐らく、さういふ劇場向きの戯曲といふものは、今日まで現はれた戯曲の中、極めて少数であらうと思ふ。(一九三二・一)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「改造 第十五巻第一号」
   1933(昭和8)年1月1日発行
入力:tatsuki

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