本の読者は、仏蘭西の、少しよく喋舌る舞台上の人物の、細かく動く口許ばかりに気を取られて、それを、ぢつと聴き澄ましてゐる作者の底光りのする眼附きを忘れ勝ちである。
言葉の数は、必ずしも沈黙の量と反比例はしない。
ルナアルに於て特に然りである。
彼は、言葉の価値のみが沈黙の価値を左右することを誰よりもよく知つてゐた。
彼が「沈黙の詩人」――真に「沈黙の詩人」たる所以である。
舞台上の人物が、何か考へながら間を置いて物を言ふ――これは、さういふ人物だからである。舞台上の人物が、よく喋舌る――黙つてゐる時間が少い――それも、さういふ人物だからである。
傑れた戯曲は、人物が喋舌る喋舌らないに拘はらず、絶えず作者が人物の心の動きを追ひながら、そこから生命の韻律的な響きを捉へることに成功してゐなければならない。
寡黙な人物を好むことは勝手である。
饒舌な人物を厭ふことも勝手である。
要するに、作品の価値は、寡黙な人物が如何に描け、饒舌な人物が如何に描けてゐるかに在る。而も、寡黙な人物のみが登場する舞台は、よく喋舌る人物のみが登場する舞台よりも芸術的に優れてゐるとは言ひ難い。
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