物に、「考へてゐることを上手に云はせ」たら、批評家はきつと、こんな人物は日本にゐないと云ふでせう。何故なら、日本人は「めいめいの表現」をもつてゐないからです。「考へ」のニュアンスを無視してゐるからです。お座なりと口上と紋切型が多すぎるからです。感情の表現がカテゴリックだからです。
「沈黙は金なり云々」の格言は、遂に、東洋流の解釈によつて、「咄弁は美徳なり」と同義になり、やがて、「月並な文句は粗服を纏へる真理なり」と敷衍せられ、遂に「退屈な話は人類を堕落より救ふ」とまで進んで来た。
 僕は潔よく人類たることを辞退する。

 議論がやゝ矯激に失したやうである。ルナアルが小鼻を膨らましてゐるだらう。
 処で何の話しをしてゐたかと云へば、わがルナアルの戯曲についてゞある。
 戯曲の文体――つまり対話の形式はいろいろあるだらう。第一作中の人物によつて違ふ。人物のコンディションによつて違ふ。然し、それらの人物の対話を通して、「作者独特の文体」といふものが論じられる。これは作者の素質である。
 同じやうに傑れた才能を有つた劇作家が、同じコンディションの人物を描いて、之に同じ対話をさせても、作者の異つ
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング