劇作を志す若い人々に
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拱《こまね》いて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)のう/\[#「のう/\」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のう/\

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔me'tier〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 自ら劇作家と名乗る資格があるかどうかわからないものが、劇作家たるべき道を説くことは甚だ可笑しいと思ひますが、私を一個の劇作家と見立てゝ、かういふ課題を与へた本誌編輯者の、表面的な責任の蔭にかくれ、私は、自分の信ずるところを述べて見ませう。

 一体、「劇作家になる」といふこと、それ自身が問題なのです。
 或る批評家の説によれば、「劇作家は生れながらにして劇作家である」べきださうです。此の点、電気技師や小説家が、修業によつてその道に至り得るのとは、根本に於て違ひがあるやうに思はれます。
 しかし、此の説は、大きなパラドツクスが含まれてゐる。われ/\が、常に天稟の素質の前に頭を下げなければならないなら、腕を拱《こまね》いて死を待つより外ないのです。
 此の批評家が、何故に、劇作家だけが特に、「生れながら」劇作家でなければならないと主張するか、それは、劇作家だけが、当今、「誰でもなり得る」ものと信じられてゐるらしい風潮を揶揄したものであらうと思はれます。
 ある批評家はまた、劇作に於ける art と 〔me'tier〕 とを区別して、作家の素質を論じてゐます。前者は云ふまでもなく芸術であり、後者は技術です。云ひかへれば、前者は霊感に属し、後者は、「思ひつき」に属すとも云ひませうか。或はまた、前者は先天的才能に負ふところが多く、後者は、職業的熟練に俟つべきものと云へば云へませう。
 なるほど、かういふ風に考へれば、古今の劇作家について、一応その素質を吟味することができます。日本の現代作家についてもまた興味ある批判が加へられることゝ思ひます。
「劇作家は生れながら劇作家でなければならぬ」といふ議論も、結局、技術だけを生命とする劇作家は、真の劇作家とは云へないといふ主張が
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