裏づけられてゐると見てよろしい。
それならば、ほんとの劇作家が具へてゐなければならないもの――即ち、劇作上の art とは如何なるものか。それはどういふところから生れて来るか。それはどういふ形で作品の中に表はれてゐるか。この難問題を解決して、扨て、諸君はどうすれば、この art を体得し、驚嘆すべき傑作を物することができるか――といふ結論を引出すことが、此の文章の役目だとすれば、私は、聊か心細さを感じます。なぜなら、そんなことはちつともわかつてゐないからです。恐らく、誰もわかつてゐないでせう。
古来作劇術(ドラマツルギイ)と称する書物が教へるところは、実は、此の art そのものには関係なく、たゞ僅かに、〔me'tier〕 の一端に触れたものに過ぎません。従つて、ドラマツルギイなるものは、文法書と撰ぶところはない。否、文法は、それでも、例外を認めてゐる。ドラマツルギイは、此の例外をすら挙げてゐないのです。
凡て、芸術は、例外を作る術であるとも云へるではありませんか。劇作に於ても、その例外の生れるところを究めなくてはなりません。古来、戯曲の名作と称せられるものは、悉く、何等かの形で幾分の例外を含み、此の例外を生かす何者かによつて永遠性を有つてゐるのです。
今の私には、これだけのことがわかつてゐるだけだ。そこで私は、世の若き劇作家志望者諸君(並に諸嬢)に向つて、次のことを勧告して置きたいと思ひます。
第一に、古今東西の戯曲を読み、またはその舞台を観る際に、その戯曲の思想と形式、又は内容と表現を分析的に考察、批判することも肝要ですが、それ以上にその作品の魅力が、 art と 〔me'tier〕 との如何なる交錯融合によつて生れるかを吟味する用意が必要だと思ひます。勿論、どの部分が芸術で、どの部分が技術と、はつきり見分けがつくわけのものではありませんが、また、その両者が渾然一致してゐる場合こそ極度の魅力を発揮するのですが、その点を充分考慮に入れて戯曲を鑑賞すれば、おのづから作者の「心」と「手」とが、異つた質量と熱度で諸君の感覚に伝つて来る筈です。こゝでお断りをして置かなければならないのは、所謂「技巧」といふ言葉についてゞす。日本の文壇では、「技巧偏重」といふ、既にそのこと自身が、「技巧偏軽」を意味する批評を耳にしますが、私が、前に述べた 〔me'tier〕 は、決し
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