ト技巧の全部を指すものではありません。技巧そのものゝうちには、立派に art の名に値するものもあるのです。さういふ技巧は如何に重んじても「偏重」にはなりません。
 第二に、いろ/\な戯曲をその出来栄え、即ち、それ自身としての価値によつて批判すると同時に、その作品の内容と形態が作り出すある「特殊性」について、文学史的進化の法則と過程とを発見するやうに努めなくてはなりません。これは、今日の我が批評壇が、殆ど注意を向けてゐない点です。云ひ換へれば、文学上の「様式」(genre)に対して、一個の観点をもつといふ、当然な態度なのです。
 例へば、此処に一篇の悲劇がある。その悲劇の価値を測る尺度で、一篇の喜劇を測ることは出来ない筈です。またこゝに一つの社会劇がある。もう一つは神秘劇です。此の二つの作品を、同一の筆法で論じることは無意味です。ところが、日本の文壇では、それが平気で行はれてゐる。従つて、喜劇に厳粛さが要求され、神秘劇に革命精神がなければならないことになる。これでは困る。勿論、劇作界に分業制度があるわけではありませんから、悲劇を書く傍ら喜劇を書き、社会劇を書く片手間に神秘劇を書いてもよろしいわけであるが、批評家の方でも少し考へてくれないと、喜劇を書いて悲劇の特性を与へることに腐心して神秘劇を書きながら社会劇の効果を挙げようと苦心する作家がないとも限らない。これでは何時までたつても、傑れた作品は書けないでせう。諸君に、此の無駄骨折をさせまいとするのが私の願ひです。
 私は、また、必ずしも、様式《ジヤンル》の混合を認めない古典主義者ではありません。悲喜劇なる様式、乃至神秘的社会諷刺劇の存在をもわきまへてゐるつもりです。それも文学史的観点によつて整理されてこそ、権威ある批評が加へられるので、それにはそれの価値を測るべき特別な尺度を準備しなければなりません。
 かういふと、中には、それなら、自分が脚本を書くとき、どういふ様式の脚本を書かうときめてかゝらなければならないのかといふ疑ひを起す人がないとも限りませんが、それとこれとは別問題で、きめてかゝつてもよし、かゝらなくつてもよしと答へるより外はない。それは要するに、霊感の支配を受くべきものだからです。
 以上の注意に関連して、現代に於ける「戯曲の新しい歩み」を知ることが肝腎だと思ひます。私は前に、芸術は一つの例外を作る術だと
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