戯曲二十五篇を読まされた話
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白《せりふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巣父|犢《こうし》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]氏
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)めちや/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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四月号の寄贈雑誌大小十六種のうちから、創作戯曲二十五種を選び出し、昨日(四日)まで暇を盗んで読んだ。その結果がこの一文になるわけであるが、僕は決してこの仕事を自分に適した仕事だとは思はない。たゞ書く方で愉快にならないやうな文章は、読む方でもつまらないにきまつてゐるから、努めてじう面はつくらないことにする。そのかはり、多少の戯談は許してもらひたい。
第一断つて置かなければならないのは、チヨンまげが出て来る芝居は、そのチヨンまげが武士であらうと町人であらうと、一切、批評することを断念した。(但し長与善郎氏の「武蔵と卜伝」だけはこの限りに非ず)
第二には、どれも一回しか読まなかつた。暇もなし、根気もなし、殊に……これは後でいふことにする。だから、もちろん、読みそこなひ、解り損ひ、時に感じ損ひが多からうと思ふ。僕は常に、佳い脚本なら五度くらゐ読まなければほんとの味が出て来ないものと思つてゐる。もつともさういふ脚本は、一度読んだ時に、はゝあ、こいつはたゞものでないといふことだけはかぎだせる。
第三に、一二ペーヂ読んで、付いて行けないと思つたものは――さういふ経験をだれでも有つてゐるだらうと思ふ――一ペーヂづゝ、時には四ペーヂづゝ飛ばして読んだ。それで解ることだけは解るのである。もつともそれだけで、その作品がどれほど悪いかなんていふことはいはない方がいゝ。
そこで結局、僕のきまぐれな印象記はいはゆる批評家の批評にはならずとも、一読者の声として、同じ作品を読んだ人達の「話相手」になればそれでいゝのである。
先づ創刊の「演劇新潮」では藤井真澄氏の「雷雨」を読んだ。仲々芝居をやつてゐる。昔の壮士芝居を思ひださせる場面がありますね。これが大衆劇といふんでせう。なるほど大衆には受けさうだ。また「人をのろへば穴二つ」といふ教訓も含んでゐて、カフエーなどに出入する不良青年少女を戒めるに足るものである。藤井氏年来の主張を裏切らない作品である。従つて同氏のものとしては佳作に属すべきものでせう。
つぎに高田保氏の苦心になる新劇雑誌「テアトル」――これでは金子洋文氏作「牝鶏」を拝見した。例によつて「はつらつたる野趣」に富む戯曲である。たゞ、人物の心理的発展がやゝ機械的で、しかも、その機械的なことが割合に喜劇的効果を助けてゐない憾みがある。恐らく観察の狂ひであらう。最後に、娘の方にまで卵をこしらへさせる、とはちとあくど[#「あくど」に傍点]くはないか。これは必ずしも趣味の問題ではあるまいと思ふが、金子君、どうです。これを読み終つた時、ふと同君の名作「盗電」の美しい場面を思ひだした。
鈴木善太郎氏の雑誌「劇場」は、同氏の作「東京の眠る町」を掲載してゐる。これはたしかに新時代の生活だ。少くとも、戯曲に取りいれられたある新時代の生活だ。但し、作者が比較的その新時代を軽く取扱つてゐるやうに見えるのはどうしたものか。軽く取扱つてゐるといふ意味は、もう一歩先にもう少し「精神的な事件」がある、それを作者は顧みないでゐるやうに思はれることである。しかし、この作者の住んでゐる世界は、「新しい演劇」を生む一つの世界に違ひない。それを何よりも尊く思ふ。
井東憲氏の「貞操を」――同じ雑誌に載つてゐるのだが、今日までついうつかりしてゐて読まなかつた。佳いものかも知れない。
同人雑誌「青空」では飯島正氏の「海浜挿話」を読んだが、活字が悪いので印象をめちや/\にされた。作中の人物が、あの活字のやうな形に見えてしやうがなかつた。それが若し作者の好むらしいマリヴオーダアジユと一致するものでなければ結構である。
同じく小冊子「街」の一角に見た「トロイの木馬」は注目すべき作品である。作者坪田勝氏が、たゞ形式上の新味を見せようとしたのなら、必ずしも感服はできないが、全篇をあの独白で貫ぬくために、人物の心理的リズムに適度のテンポを与へ、感情の飛躍を鮮やかにコントロールしてゐる手並は、たしかに非凡である。殊に、この特殊な形式が要求する文体の上に、十分の用意を加へて、立派な劇的効果を収め得たことは正に推賞に値ひする。この人は劇作家である。しかも有望な劇作家である。
幕切に女が箱の中から何を探さうとしてゐるのか、はつきりわからせないところ大いによし。
「主潮」同人樋口正文氏の戯曲批評はこれまでちよいちよい読んだ。作品を読むのはたしか今度が始めてゞある。「開演中」はなるほど、批評家の作品らしいところがある。まづくはない、殊に、そつ[#「そつ」に傍点]がない。これも「新時代の犠牲」をゑがいてゐる。が、危いかな、作者自身もその一人にならうとしてゐる。
「塔」の本庄桂介氏は即興曲「小春日和」においてある夫婦の生活を描き、才筆侮るべからず、たゞこの種の題材を生かすための観察の鋭さがない。そして殊に心境の清らかさに欠けてゐる。
「錬金道士」の岩瀬虎治氏は「生きる日」において、文科大学生気質の一面を描いてゐる。文科大学生ならばたれでも書ける程度のもの。これは侮つていふのではない、何かしら光つたものを特にこの作者に求める。
ぼくは高田保氏に期待するところが大である。「虚無思想」といふ気味の悪い雑誌にアレゴリイの一幕「人生」を見だしたが、この高田氏の五分間喜劇は僕を一寸考へさせた。即ち、この題材なら、大概の人は二三十枚に書く。それを四五枚に圧さくした所、さすが高田氏だと思ふが、「人生」といふ標題の手前、より大なる哲学的勇気をもつて、これを一篇のソンネに縮めて欲しかつた。
「文芸春秋」唯一の戯曲、長与善郎氏作「武蔵と卜伝」は僕の興味をひいた唯一のチヨンまげ劇である。この作、必ずしも面白いわけではないが、かういふ題材はとかく常識的興味の持ち方に陥るものであるのに、この作者は、これに作者の朗らかな主観を与へてゐる。作者が、この作品に与へようとした「意味」は、さほど僕の感興をそゝるものではないが、一見、大まかに見える手法のうちに武者小路氏などと違つて、十分芸術家らしい神経を働かせ、常に完成に向つて謙虚な努力を続けてゐる作者に、僕は敬意を捧げる。
「新小説」には秋田雨雀氏の「先生抹殺」と題するフアルスがある。かういふものは、読む時次第で、をかしくもあり、をかしくもない。僕が読んだ時は、をかしくなかつた。「をかしくないといふ気持」は、変な気持である。「笑へない気持」とも違ふ。この作者は喜劇を書くべくあまりに何かを信じ過ぎてゐると思ふ。
が、これとはまた違つた意味で「中央公論」所載長谷川如是閑氏の「根管充填」といふ喜劇も「をかしくない喜劇」の一つである。この方は、をかしくないのみならず、読むのにやゝ苦痛を覚えた。変な芸術家気取りがないだけに、その苦痛も倉田百三氏の「赤い霊魂」(改造)を読む時ほど堪へ難いものではない。殊に前者の道楽気は後者の真剣味よりも僕には親しみが持てる。前者はともかく読了し、後者は中途で失敬した所以である。「赤い霊魂」の作者は真面目に何かを考へてゐる人かも知れない。しかし、その考へてゐることを人に伝へるためには、もつと便利な方法がありはしないか。
武者小路実篤氏もやゝこれに似た作家である。この種の作家は概して筆を惜しむことを知らない。「女性」に「夢の国」を、「改造」に「ある物語」を、「中央公論」に「出鱈目」を発表してゐる。この人はたしかに不思議な存在だ。みんなが、みんなのためになるやうな社会を夢想してゐる時に、この人は、自分だけの気にいるやうな世界を夢想してゐる。「夢の国」は何とキザな人間の寄り集まりだらう。負けても腹を立てないといふことを見せるためにのみ角力を取る男達がゐる。そこへまた「殺されるのは沢山」で「死ぬのは困る」男が、「うぬぼれもないことはないが、あまり見よいものではない」から、けんそんして見たりする。王様と呼ばれる男の、貴族的平民振りはまあいゝとして、かう、めい/\が、自分の上に加へられてゐる人の注意を始終意識してゐることはやりきれない。自分のいふことは何でも人が感心して聴くと思つてゐるらしい人物それ/″\の思ひ上り方も鼻につく。さて、これらの人物を、作者は、如何なる眼をもつて視てゐるか。友情とせん望の眼をもつて見てゐる。そこには作者の、単純にして寛大な批評がある。この寛大さは、たしかに人を打つものである。作中の人物は、何れも人間の醜さを覆ふために、同じく醜い人間となつてはゐるが、それは丁度、さる[#「さる」に傍点]が盗んだ果物を後へかくして逃げるやうな罪の無さによつて、人の心を和げる。たゞこの効果は、憾むらくは作者の企図したものではない。それだけに、われわれの興味は、常に作品を離れて作者にのみ向はうとする。
「ある物語」と「出鱈目」は取り立てゝいふべきほどのものではない。
序にいつて置くが、この作家はもつとも芸術家的な魂を持つてゐる作家の一人である。それと同時にこの作家は、もつとも芸術家的ならざる感覚をもつてゐる作家の一人である。
里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]氏は「女性」に「白扇の下に」を書き、「改造」に「たのむ」を書いてゐる。里見氏の戯曲を読むと、何よりも、里見氏から芝居の話を聞いてゐるやうな気がする。手に取るやうに舞台を見せてくれる。読者は少しの想像力をも働かせる余地がない。といふことは、結局戯曲の読者に取つては少々有難迷惑ではあるが、戯曲の読めない読者に取つてはこの上もない幸ひであらう。「白扇の下に」は思ひつきだけの面白さだが、「たのむ」の方は、それ以上に、ふんゐ気から来る面白さがある。どちらも、短いものでありながら、準備説明が長すぎるが、その説明の終るところから、急に、場面が緊張しはじめる。登場人物は、何れも型通りの白《せりふ》をしやべりつゝ、それが活々と動いてゐるのはどうしたわけか。表現の確かさはこの作者の強味である。せめてこの描写力に、応はしい心理解剖の鋭さがあればと思ふ。会話の「いき」は流石手にいつたものだが、それだけでは戯曲の文体として上乗なものだとはいへないやうに思ふ。なぜなら、その言葉には陰影が乏しい。従つて暗示力が希薄である。読者をひきずつては行くが、読者の眼は、作者の忙しい指先を追つて、次から次へと物の象を見るばかりである。あれも見た、これも見た、あれも面白かつた、これも面白かつた、そして、……? それだけだ――といふ旅をしたやうである。一体どこへ行つた? ――あ、それや、気がつかなかつた――といふ旅である。熱い国か寒い国か? ――忘れたといふ旅である。一寸変つた旅ではあるが、なんと話にならぬ旅ではないか。夢なら夢でまた話のしやうもあるものを……。
「助次郎、すぐ身を起し、流しもとから、菜切ばう丁をぬき持たうとするが、刑事に、ぐいと腰なはを引かれて取り落す。」あたり、思はず読者の方で浮腰になる。しかし、この時、作者の眼が、割合に物を言つてゐない。それがさびしい。これに反して、為吉が徳利の酒を湯のみに注いで、助次郎の方に差だすあたりから、今度は、作者が、のそ/\と出しや張つて来るのが眼ざはりだ。要するに、名小説家里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]氏は、主人公助次郎の如く、舞台という腰なはをつけられて、足は動いても手がだせない状態である。それにつけても、同氏の小説を読んで御覧なさい。僅五六行の会話の一節でさへ陰影と暗示に富む好個の劇的場面を見せてゐるではないか。あれがあのまゝ、なぜ戯曲にならない
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