少し作者は論理《ロジツク》を無視して貰ひたいことである。論理的ならざる生命感の摘出に意を用ゐてほしいことである。フアアスの行くべき道は、単に戯曲的諷刺のみではない筈である。寧ろ『必然』に背を向けたフアンテジイの高調こそ、近代フアアスの精神であるかもわからない。

『乞食と夢』も亦、喜劇とフアアスの間を行く作品である。一人の乞食が偶然出会つた盲目の乞食に、自分も乞食であることを知らさずに金を施すのであるが、他人を乞食扱ひにする快感を味ふひまもなく、相手の姿の中に自分自身の姿を見出して束の間の夢を破られるといふ筋――これはたしかに面白い話である。しかし、なかなか纏めるのに六ヶ敷い場面だ。例によつて周到な舞台技巧が用ゐられ、さのみ淀みなく筋が運ばれてはゐるが、そして、一応、心理の屈折は描かれてゐるが、まだまだ好くなりさうだといふ気がするものである。僕の考へでは此の作に現はれて来る乞食は、乞食の真似をしてゐる男になつてゐる。それよりも乞食ならばこんな時にこんな気持がするだらうといふ、その気持を示すために、作者がわざといろいろなことを云つたり、したりさせてゐるやうなところがある。芝居といふものはみんなどれでもさうだと云へば云へないこともないが、僕の望むところは、人物が、もつと自分で云ひたいことを云ひ、したいことをしてゐるといふ感じを与へて欲しい。此の評は甚だ概念的で、特殊な作家の、特殊な作品を評する場合、やゝ妥当でないが、これといふ欠点をもたない戯曲に対して、常に考へさせられる問題である。

『勝者被勝者』と『彼等の平和』は、共に関口君のモラリストたる所以を悉く発揮して、而も、やゝその点に不満を抱かせる作である。何故かと云へば、そこには、主題が生活から遊離するかの『問題劇』の危ふさを感じさせるからである。
 勿論、此の二作は、関口君の他のすべての作に於けると同様、所謂『テーマ』の取扱ひ方に於て、従来の『問題劇』と云ふ型を脱し、その『テーマ』を貫く正義感も、決して論議の為の論議として現はされてゐない。殊に、作者は主張することをやめて、探究する立場を守つてゐる。此の慎ましい態度は、何人にも好感を抱かせるものである。

 関口君が、当今の劇作家を通じて、殊に、新進作家の一群中にあつて、独り戯曲の本道を歩み、将来の大を期待される所以は、恐らく此の種の戯曲――処女作にして同時に傑作たる
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