せである。
 モラリストであるためには、必ず理想主義者でなければならないといふわけはない。
 関口君は、芸術的に、なほさうである如く、思想的にも可なり現実主義的色彩が濃厚である。この色彩は、同時に彼のペシミスチツクな一面を物語つてゐるやうに思はれる。
 僕は、自分がさうであるせいか、関口君の作品から受ける思想的感銘には屡々顔を蔽ひたくなることがある。やりきれないといふ気がすることがある。
 たゞ、これは想像に過ぎないが、若し関口君に少しでもデイヤボリツクな傾向があつたら、それこそ、彼の作品は、恐ろしいものになるだらう。恐ろしい――さうだ、色々の意味で。

『女優宣伝業』は、関口君が最近に拡張した芸術的一領土である。
 尤も、嘗て『青年と強盗』を書いて、此の野心を示しはしたが、それはやゝ瀬踏みに近いものであつた。然るに、此の『女優宣伝業』はなほ此の種の形式に必要な一二の用意は欠けてゐるにしても、兎も角も、大胆に、愉快に、そして見事に、大きな一歩を踏み出してゐる。
 由来、笑劇(フアアス)といふものが、芸術的作品としてその新しい評価を得たのは西洋でも極く最近のことである。
 古くは『代言人パトラン』下つて、シエイクスピイヤ、モリエールなどの作品中、笑劇と云へば、問題の外にされてゐた時代があつた。然るに、近代に至つて、フアアスは立派に、悲劇、喜劇と並んで、劇文学の一分野を占め、クロムランクの『堂々と妻を寝取られる男』の如きは、大戦後欧洲の劇界に、しかも、先駆的劇壇に於て、文字通り一大センセイシヨンを惹起したほどである。
 わが国に於ても、早晩、フアアスの鑑賞眼が高められ、優れたフアアス作家が現はれて来るだらうが、さういふ時代に先行して、わが関口次郎君が、純粋な笑劇に手を染め、可なりの成功を収めたことは、正に特筆すべき事件である。
 昨年新劇協会が帝劇の舞台にかけたのを機縁に、浅草の大劇場でも、これを上演して、大に此の作品のポピユラリテイイを証明したが、公衆は、たゞゲラゲラ笑つてばかりゐて、作者の云はうとするところを果して耳に入れたかどうか。況んや、曾我の家式喜劇と断然区別さるべき一点に敏感な眼を向けたかどうか。

『女優宣伝業』――こゝで作者は、自ら進んで写実の域を脱け出さうとした。誇張と想像とを恣にした。ところが、僕は、なほ作者に註文がある。それは、此の種の作品で、もう
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