『母親』以来――によつて本格的手法の冴えを示したからである。
 しかしながら、僕は、作者が自らも気がついてゐないであらう特質の一面が『母親』から『秋の終り』に至つて、更にまた『暁を待つ』(此の集にはひつてゐないのは残念である)に至つて可なり鮮やかに表示されてゐるに拘はらず、同じ傾向にありと思はれる、『勝者被勝者』や、『彼等の平和』に至つて、聊かその輝きを消してゐるのに気づいて、作者の為に惜しい気がしてゐることを告白したい。
 その特質の一面とは、『心理的詩趣』とでも云ふべきものである。
 同じ劇作家にも、様々な特質があつて、その特質によつて、それぞれ発揮する魅力が違ふのであるが、関口君は、たしかに、この一面だけでも、わが国の現代作家中、特異な地位を占むべきである。関口君の作品が、久保田万太郎氏の作品に一味相通ずるところのあるのは、此の点であらうと思ふ。
 さうかと云つて、関口君が特に此の『心理的詩趣』のみを制作の動機とする時、そこには、概して雰囲気の冷たさを残してゐる。云ひ換へれば、作者の『心』を感じさせない何ものかゞある。『真夜中』は此の意味に於て、やゝ失敗の作たることを免れない。
 僕はたゞ、此の失敗を、それほど作者の為に悲しまない。なぜなら、常に安きにつくことは若き作家の取るべき態度ではないからである。関口君の如き思慮深き作家に取つて、此の種の作品は、当に一つの冒険でなければならぬ。関口君は、こゝで、その建築家的才能を秘めて、一途に、未だ嘗つて試みなかつた画家的手法を採用し、やゝ色彩の調和を誤つた形である。
 思ふに、此の評は一部戯曲専門家には容れられるかはわからないが、他の多くの読者には殆ど一顧だに値しない空論であるかも知れぬ。といふわけは、此の『真夜中』は、その人物の配合と、事件の交錯とに於て、読者の好奇心を惹くに充分であり、しかも、多分のユーモアが作者独特の皮肉に交つて、わけもなくわれわれの微笑を誘ふからである。

 喜劇小品と銘うつた二個の『十五分劇』は、何れも、作者の皮肉屋たる本性を露骨に示したもので、この皮肉は実に、関口君の全作品を通じて殆ど到るところに『尻尾』を出してゐる。
 なぜ故らに『尻尾』を出してゐるかと云ふと、作者は、それほど意識して此の『皮肉』を濫用してゐるのではなく、作者の興味が、何物かに向けられた瞬間、そこには、自ら、皮肉の影が映る
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