と姿態が、時には離れ離れに、時には入り乱れ、また時には一致融合して自由な表現に達するところから詩が生じるのである。ここで詩論にまではひるわけに行かないが、要するに戯曲の戯曲たる所以は、主題そのものの客観的特性に在るのではなくして、流動する人生の姿を通して、統一ある生命の韻律を捉へ、これに文学的意味を与へて、動作または白の形式に盛る、これ以外にはないのである。
 戯曲を読み又はその戯曲の上演を観る時、われわれは「作者の意図」を露骨に示されることを厭ふ。作者から直接に話しかけられることを不快に感じる。これはなぜかと云へば戯曲作家は、読者なり観衆なりと倶にその傍らに在つて人生を観、彼等と倶に笑ひ、且つ泣くべき立場に置かれてあるからである。読者や観衆は、戯曲の前に立つた時、作家の存在を忘れてゐる。彼等は、自ら戯曲に盛られてある「人生」の批判者にならうとする。これは、結局同じことで、やつぱりいつの間にか作者の魔術にかかり、作者の批判に耳を傾け、作者の批判を批判として受け入れればその作品は成功である。読者や見物をして、恰も作者の力を藉らずして、「人生の心理」を発見したやうな快感を与へるところに、戯
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