度」といふ言葉も穏かでない。功利的の意味が含まれるやうな気がする。「興味のもち方」にはいろいろある。教育家として、政治家として、社会学者として、宗教家として、心理学者として、倫理学者として、又は、新聞記者として、刑事として、商人として、隣人として、知人として、赤の他人として、又は親として、兄弟として……。が、それらの「興味のもち方」は何れも、芸術的作品の根柢にはならない。芸術家は、その何れでもあり得ると同時に、その何れでもないのである。そこには、もう一つ別に、「芸術家としての興味のもち方」がある。これにも亦、芸術家各個の素質によつて、幾通りもの「興味のもち方」があるだらう。あるものは楽観的に、あるものは悲観的に、又あるものは喜劇的に、あるものは悲劇的に、あるものは浪漫的に、あるものは現実的に、様々な「興味のもち方」をするであらうが、兎も角も、その「興味」は、一度は必ず芸術家としての心境を透して、特殊な感受性と想像力の節にかけられ、そこから「人生の新しい相」が正しく美しく浮び出てゐる。――さういふ「興味のもち方」は、芸術家の本質的天分を決定的に物語るものであつて、鑑賞者の立場から、その作
前へ 次へ
全13ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング