紀州人
岸田國士
子供のころ、故郷といふ課題で作文を作つたことを覚えてゐる。しかし、どんなことをどんな風に書いたかは一字一句も覚えてゐない。恐らく、「故郷とは懐しいものであり、その山も川も、野も林も、父母の笑顔の如く、われらにとつて忘れ難きものである」といふやうなことを書いたのであらう。
私は今でも、よく人から「お国は?」と訊かれ、訊かれるたびに、なにか妙にこだはつた気持で、「両親は紀州の生れです」と答へることにしてゐるが、自分が紀州人であるといふことが、なぜか、事実に遠いやうな気がするのである。
これは無論、第一に、自分が東京で生れ、東京で育つたことに原因してゐると思ふ。七、八歳のころ、夏であつたか、父に連れられて、一週間ばかり和歌山市駕町といふところに祖父を見舞つたのを最初として、その後今日まで、たつた二度、それも一日か二日の滞在で、同じ町の母方の伯父を訪ねたのが、自分のこの土地に対する全交渉である。
しかし、世間にはかういふ種類の人間が随分多く、なかには生れてからまつたく、郷里の土を踏んだことのない人々も珍らしくないだらうが、さういふ連中が、やはりどこか、その風貌におい
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