しなければならぬのであつて、私の考へでは、その先駆をなすものが、一国内における各地方、各州の文学的生産を、一種の「気質」に本づいて検討する「好事家的」試みではないかと思ふのである。
しかしまあ、かういふ議論はさて措き、私は、他人のなかに「紀州」を発見し得る修業がややできかけたと同時に、自分のなかの「紀州」もまた、それに共通するところがなければならぬと思ひ、ひそかに自己分析をやつてみることがある。
いふまでもなく、同じ紀州人にも、またいろいろ型があつて、先天的にも、後天的にもそれぞれの個性を発揮してゐるのだから、十把ひとからげに論じるなどは無謀の極みであるが、紀州人には、かういふ型の人物が多いとはいひきれるし、また、ある人物のかういふところは紀州人らしいともいへるのである。
私の観るところ、彼等は、表面的に明るさうに見えても、裡に必ず暗いものを蔵し、熱情家らしく思はれても、底は冷たく静まり返つてゐるのである。
彼等は極端に「自我」を尊重する。平たくいへば「我が強い」のである。また往々利己主義者にさへ見えるが、その「自我」はしかし、それ以上の目的と結びついて一種の反抗的色彩を帯び、
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング