向に一大転換を試みなければならぬ、と云つた。
これは一部の人々の同意を得たやうに思ふ。
当時、一般に「文化」の概念なり、意識なりは、今日とはおよそ違つてゐたことは事実で、云はゞ「文化」の国際性といふやうなものに大きな意義を与へ、戦争も文化の一表現だなどと云へば、忽ち反対者が現れさうな情勢であつたけれども、しかしまた、一面に、「文化」は如何なる状態に於て最も健全に伸び育つかといふ問題を、真面目に考へてゐた人々もゐたであらう。
「文化」とは何ぞやといふ問題だけは、一応、日本自体の問題として解決され、日本の文化は将来如何なる方向に発展すべきやといふことすら、もはや、心あるものゝ間では、漠然とではあらうが、焦点らしいものもつかめて来たやうに思ふ。
この時に当つて、私は、前言を翻すことではなく、まつたく新しい見地に立つて、「文化の擁護」といふ言葉を、もう一度使ひたくなつたことを告白する。
それは、戦争そのものではなく、戦争に附随する様々な予期せざる生活事情のなかに、また、政治そのものではなく、政策遂行の繁雑な手順のなかに、往々、日本文化のかくあるべきすがたを見失はしめ、かくあらしむべき方向を迷はすやうな処理法が、誤つて介入することがあり、これに対して、一言の注意を加へるものがないとあつては、まことに国家のために由々しいことだからである。
たゞ、一言の注意ですむくらゐなら、わざわざ「文化の擁護」などと云はなくてもよろしいのである。私の考へをもつてすれば、これこそ、戦争目的達成の上からも、政治の日本的な在り方の上からも、なんとかして、有力な民間の声としなければならぬまでに、問題は重大性を帯びて来てゐる。
握り飯
これは実話である。あちこちで話したから二番煎じのやうな気もするが、棄て難いものなので、こゝに収録する。そして、美談とはかくの如きものであらうと思ふ。
ある若い画家が、写生のためと、暮しを安くあげるために、山間の鄙びた温泉宿で一と夏を過した。
宿の附近に駐在所があつて、そこのお巡りさんが度々その画家を訪ねて来た。遊びに来ると云つた方がいいくらゐ、お巡りさんは画家と話が合ふ。夜おそくまで夢中で話し込むこともあつた。
すると、ある晩のこと、女中が駈け込んで来て、お巡りさんに七分、画家に三分の割合で、かう告げた。
「そこの時に行き倒れがゐるさうです
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