、あつしの知つてるんぢや、夜店へどしどし品物を出してますぜ」
この話は別に大した寓意を含んでゐるわけではない。近頃云はれる「職域」なるものの分類について、さう簡単にはいかぬといふ一例にすぎない。
単刀直入
日本人の最も好みに通つた物の言ひ方に、「単刀直入」といふのがある。
「言あげせぬ」といふことが、若し、「議論をせぬ」といふ意味なら、さういふところからも来てゐるのだらう。とにかく、ずばりと物を言ひ、いきなり急所要点をついて、相手に有無を云はせぬ筆法である。もちろん「武道」の呼吸にならつたものと云へよう。
実際、言論の士には、廻りくどい方も少くないが、単刀直入の使ひ手がなかなか多い。ほかのことはともかく、単刀直入だけは心得てゐるといふ風な人物もゐるのである。
うまくいけばこれほど痛快なことはなく、うまくいかなくても、相手に罪を着せることは容易であり、少くとも、こつちはもともとであるやうに思へる。
大体、人と言葉を交すことを、日本では戦闘競技に喩へる風習があつて、短兵急とか、一本参らすとか、止めを刺すとか、揚足を取るとか云ふ。尚武の国であつてみれば、それは当然であるが、たゞ、そのためには、言葉を武器として使ふほどの用意がいりはせぬかといふことを、私は近頃、ふと気がついた。
修練を欠いた言葉の操作は、それが武器のつもりであればあるほど、生兵法の危険を伴ひ、相手を戸迷ひさせ、何か間違ひではないかと、頭を叩かれながら訊ねるやうなことにもなる。
ところで、単刀直入は、やはり、禅などの影響もあり、人が眼をぱちくりさせることは勘定に入れず、極めて象徴的な一言を放つて、相手が応と受けとめてくれることを期待するところがないではない。
しかし、単刀直入の名手のみあつて、これと正面から渡り合ふ相棒がゐなくなつた今日を考へると、私はなんとなく淋しい気がする。
その証拠に、多くの議論を聴いたり読んだりすると、何れも、手応へのない単刀直入と、その解説、弁疏に満ちてゐるのである。
文化の擁護
私は嘗て二年前、「文化の擁護」といふ言葉は、この時局下に穏かでないし、さういふ考へ方も、戦争といふ国民的事業を遂行しつゝある際、今日までの模造舶来文化などに恋々としてゐるやうにみえてよろしくないから、潔く投げ棄てゝ、今後、文化の「建設」とか「創造」とかいふ方
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