もいいのである。ただ、飽くまでも、所謂「スペクタクル」は、厳密な意味で、演劇ではない。少くとも、「スペクタクル」の要素を主とする演劇は、優れた演劇にはなり得ないのである。何となれば、「文学」を軽視した演劇なるものは、音楽を主体とする「舞踊劇」を除いては、如何なる意味に於ても、芸術的感銘に於て幼稚さを免れないからである。
さて、戯曲乃至演劇の本質といふ問題について、簡単ながら説明を終つたと思ふが、なほ附け加へておかねばならぬことは、抑もその「本質」なるものは、戯曲乃至演劇の価値と如何なる関係があるかといふことである。
話を前に戻せば、戯曲乃至演劇の「本質」を説く場合に、所謂「劇的」(ドラマチカル)なる言葉の、普通の意味に於ける解釈では、これを適用することができないといふのが、今までの論旨であつたが、それならば、「劇的」といふ言葉にどんな意味をもたせたらよいか?
また、「戯曲的」「演劇的」等の語も、今日では、大体、旧来のままの意味で使つてゐるが、若しそれが「戯曲乃至演劇の本質的生命」を指すのであつたら、それを使ふ人の「演劇本質論」を一応訊ねてみる必要がある。
これらは何れも、専門
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