得たといふ事実は注目に価する。
詩がリズムを、散文(小説)が観念を生命とするなら、戯曲は、「観念のリズム」或は、「リズミカルな観念の抑揚」を生命とするものである。(この場合、リズムといふのは、詩に於ける如き言葉の音声的リズムではなくて、思想或は感情のリズミカルな波動である。)観念のある程度以上の探さは、このリズムの破綻を伴ひ、リズムのテンポは、観念の一定の流動を強要する。そこに、戯曲の第一の限界《リミット》があるのである。第二の限界《リミット》、これは通常、「戯曲の制約」の一つとして誰でも知つてゐることであるが、戯曲作家は、自ら「物語」を語るのでなくて、「物語」自身に「語らせる」といふことである。即ち人物をして、一切を語らせなければならぬといふこと、作中の人物が、作者に代つて、作者の語るべきことをさへ語るといふ「不自然さ」である。ある数の幕を切るとか、一定の時間内に終るとか、主人公がなければならぬとかいふのは、別に、根本的な制約ではない。さて、これら、二つの限界《リミット》といふものは、実は、戯曲にとつて、「邪魔」なものではなく、「必要な」ものなのである。この限界は、詩の「約束」に
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