要素と混合された結果ではあるまいかと思はれる。
「生命による動き」を標榜した自然主義劇の行きづまりは、所謂「うまく作られた芝居」を排したことによつて、ある意味での「劇的要素」を軽視したからだといふ説は誤りである。それどころか、自然主義劇の大多数は、「劇的」境遇を濫用さへしてゐるのである。そこに堕落があり且つ矛盾がある。勿論、文学的抱負に於て敬意を表すべきものさへ、殆ど共通の過失を犯してゐる。即ち、戯曲に於ける「散文的なもの」の重視である。散文精神は「戯曲」によつても生かされ得るといふ誤謬を信じてゐるのである。
 仏蘭西の名小説家、フロオベエル、ゾラ、モオパッサン、ゴンクウル、等々は、何れも戯曲に筆を染めて、惨めな結果を示してゐる。これらの作家は、何れも、あつさり舞台を見限つたらしいのは賢明といふべきである。
 これらのグルウプから、ただ一人、ジュウル・ルナアルが、「生命による動き」の戯曲を、天衣無縫の形に於て示し得た。異例とすべきである。なるほど、彼は、詩的にして、且つ散文的なる、一種独特の精神を創造し、完成した。彼の戯曲が、偶然、その精神の故に、新しき意味に於ける「戯曲の本質」を捉へ
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