学的発展が著しく目立つた写実主義擡頭期に於てさへ、「戯曲」が常に「演劇」のために作製され、未だ嘗て、「戯曲」のための「演劇」が何人の頭脳をも支配しなかつたといへるのである。更にもう一歩を進めて云へば、舞台を予想しない戯曲、所謂「読む戯曲」の発生を促がした動機さへも、十分に闡明されず、「戯曲」なる文学の一ジャンルは、小説と詩の間を低迷して、自ら信ずべき領域を遂に自覚し得なかつたと考へられる。
 一般に「劇的感動」と称せられるものも、なるほど古今の傑作中からこれを受けることが尠くないが、この感動が純粋な芸術的感動であるかどうかは、案外説明のつきにくいものである。まして、この「劇的感動」なるものは、常に優れた戯曲の価値を決定せず、殊に、喜劇に於て、これを本質的生命と見做すことはできないのである。してみると、「劇的」なる言葉の内容は結局、「悲劇」を演劇の代表形式とし、演劇論の骨子が、実は「悲劇」の上に組立てられた時代の名残りを伝へてゐるともみられ、それと同時に、演劇の大衆性といふことが、戯曲の文学的評価に知らず識らず影響し、通俗的興味をつなぐための、物語の主題乃至技巧上の必要条件が、真の芸術的
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