「劇的」といふ言葉について、われわれは今新たな考察を加へなければならぬ。それには「劇的」即ち「ドラマチカル」といふことが、「演劇」乃至「戯曲」の本質であるかどうかといふ疑問をここで起してみる必要がある。普通用ひられてゐる意味での「劇的」といふ言葉は、「小説的」といふ言葉と同様、極めて概念的な形容詞であるが、小説に於て、所謂「小説的」(ロマネスク)なることが、作品の価値を評価する上に、第一義的要件でないといふことは、少くとも近代の文学論に於て一般に認められてゐる事実であるのに、ひとり、「演劇」乃至「戯曲」に於て、飽くまでも、所謂「劇的」なる要素を、本質的生命と結びつける習慣が継続されてゐるのは、どうしたわけであらう。
小説に於て、「散文精神」の発見があり、詩に於て、「自由詩」の運動から「純粋詩」の理論に到達した過去半世紀の文学史が、独り、「戯曲」の本質を、旧来の原始的、自然発生的解釈に委ねておいたことは、実に不思議な時代錯誤であつて、これは正しく、「演劇」なる芸術形式の複雑さを証明する以上に、「演劇」と「文学」の完全な接触が企図されなかつた結果であらうと思ふ。言ひ換へれば、かの戯曲の文
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