ノ英国俳優の一団が、海を越えて、巴里へ乗込んだことを特記せねばならぬ。最初は、一八二二年、出し物はシェイクスピヤの「オセロ」であつた。見物は、「大笑ひをした」と記録にある。そればかりではない。「けだもの」といふ半畳がはひる。生卵をぶつける。焼林檎を投げる。「シャケスパアル引つ込め」といふ始末であつた。
それが、一八二七年に、ケンブルがその一座を率ゐて「ハムレット」を出した時、殊に、一八二九年、別の一座が「オセロ」と「コリオラン」を上演するに及んで、シェイクスピヤの声価は定つた。見物は無条件に、この異国の天才を享け容れたのである。殊にすさまじい熱狂の声が、若い劇壇の中に起つた。
舞台の上で、ほんとに涙を流す俳優を、巴里の見物ははじめて見たのである。スミスソンといふ英国女優は、その時、オフェリヤに扮して、本物の狂女といふ印象を与へた。殊に、剣で刺されたり、毒を飲んだりする場合、眼もあてられぬ苦しみ方をするので、見物の女達は顔を蔽つた。
シェイクスピヤの捲き起した旋風のなかで、わがヴィクトオル・ユゴオは、「クロンウェル」の序文を綴つたのであつた。彼は、ペンを投げて叫んだ――「この芝居の
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