_様は、コルネイユとモリエエルとボオマルシェの天才を一人で背負つてゐる」と。
が、シェイクスピヤから、最も好い影響を受けた浪漫派の劇作家はヴィニイ(Alfred de Vigny, 1797−1863)と、ミュッセ(A. de Musset, 1810−57)である。
この二人は、ユゴオの如く喬木の感じこそしないが、その劇作家的才能に於ては、遥かに緻密豊富であり、その異常な感受性は、単にシェイクスピヤばかりでなく、バイロンからも、ゲエテからも、同様に、享け容れるものを享け容れ、ヴィニイは、「チャッタアトン」「アントニイ」の如き、粉飾を去つた世紀的苦悶の劇を書き、殊に、ミュッセは、柔軟繊細な近代的感覚を以て、ラシイヌの古典美とシェイクスピヤの野生美とを、併せてその作品の上に盛り、嫋々たる微風に沈痛な面を晒すが如き、正にユニックな喜劇を物したのである。
ミュッセは、その処女作、「ヴェネチヤの夜」が舞台的失敗に終つた結果、その後、上演を断念して、自ら「書斎で観る芝居」なるものを書き続けたが、これが、作者の死後、今日に至つて、観客の心を酔はす比類なき近代古典の中に数へられてゐるのである。
序に云ひ漏してはならぬことは、この期間に於ける独逸劇の侵入とその反響である。
ゲエテの小説「ヴェルテル」が、一七七五年に脚色上演され、続いて、その翻訳が現はれて、仏蘭西の劇壇及び読書界に一大衝撃を与へた。が、それはあの偉大な純情と絶望の詩が、スタアル夫人の所謂「感情的及び政治的理由」によつて、革命直前の人心を捉へたのである。かくて仏蘭西浪漫主義は、ゲエテのうちから、「独逸的浪漫主義」を摂取した。次で、「ファウスト」の第一部が、一八〇八年、スタアル夫人の管理してゐる素人劇場の舞台で初演されたが、一八二八年、ジェラアル・ド・ネルヴァルの名訳が出版され、その深い哲学的瞑想が、やうやく当時の新精神に食ひ入つた。ここでも亦、ヴィニイとミュッセが、それぞれファウスト的の「不安」をその作品中で示してゐる。なほ、面白いことには、ずつと降つて、エドモン・ロスタンとアンリイ・バタイユが、何れも、「ドン・ジュアン」を描くに当つて、「ファウスト」の知的懊悩をさながら、その恋愛的懊悩の形に於て取扱つてゐるのである。
十九世紀前半の喜劇作者を代表するスクリイブ(〔Euge`ne Scribe〕, 1791
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