トなかつたが、詩形に若干の自由を求めた。また「長台詞を封ぜよ。人物をして自ら語らしめよ」と云つた。彼は、舞台上に人間の全貌を描き出す野心を示した。政治的英雄が同時に家庭の玩具であり、戦場の勇士が、下手な詩人でありといふ風にクロンウェルを取扱つた。その意図は兎に角、それがためにこの戯曲は上演不可能なものとなつた。その後で「マリオン・ドロルム」を書き上げたが、これは思想過激とあつて検閲が通らなかつた。一八三〇年、遂に、「エルナニ」の幕が開いた。人、これを呼んで「エルナニ」の戦ひと云ふ。それほどこの戯曲初演の当夜は、物情騒然たるものがあつた。見物席は敵味方に分れて怒号し、弥次と喝采が入り乱れた。が、最後に、浪漫主義の勝利が宣せられた。
彼ユゴオは、その実、生涯を通じて、真の劇作家となり得なかつた。詩人としての巨人的歩みにも拘はらず、戯曲に於ては、徒らに空想が言葉の虹を撒き散らすにすぎず、やうやく、ラシイヌの十二韻詩《アレクサンドラン》が、一世紀を跨いで彼のペンに蘇つたにすぎぬのである。かくて古典主義劇の残塁に馬を進めながら、彼は遥かに先輩ラシイヌに脱帽したと私は信じるのである。その少し以前に英国俳優の一団が、海を越えて、巴里へ乗込んだことを特記せねばならぬ。最初は、一八二二年、出し物はシェイクスピヤの「オセロ」であつた。見物は、「大笑ひをした」と記録にある。そればかりではない。「けだもの」といふ半畳がはひる。生卵をぶつける。焼林檎を投げる。「シャケスパアル引つ込め」といふ始末であつた。
それが、一八二七年に、ケンブルがその一座を率ゐて「ハムレット」を出した時、殊に、一八二九年、別の一座が「オセロ」と「コリオラン」を上演するに及んで、シェイクスピヤの声価は定つた。見物は無条件に、この異国の天才を享け容れたのである。殊にすさまじい熱狂の声が、若い劇壇の中に起つた。
舞台の上で、ほんとに涙を流す俳優を、巴里の見物ははじめて見たのである。スミスソンといふ英国女優は、その時、オフェリヤに扮して、本物の狂女といふ印象を与へた。殊に、剣で刺されたり、毒を飲んだりする場合、眼もあてられぬ苦しみ方をするので、見物の女達は顔を蔽つた。
シェイクスピヤの捲き起した旋風のなかで、わがヴィクトオル・ユゴオは、「クロンウェル」の序文を綴つたのであつた。彼は、ペンを投げて叫んだ――「この芝居の
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