|1861)は、所謂「抽斗劇」と呼ばれるトリック万能の通俗劇作家であるが、その豊饒さと娯楽的要素によつて、当時の商業劇場を風靡し、なほ、国境を越えて英独伊等の劇壇を賑はした。
彼はある意味でボオマルシェの不肖の子とも考へられるが、それよりも、重大なことは、この一作家の存在が、十九世紀後半の所謂「新劇運動」に非常な障碍を齎したことである。のみならず、独逸に於ては、名批評家シュレエゲルをいたく感心させ、そのある作品の如きは、正にモリエエルの「人間嫌ひ」以上といふ折紙を附けさせるに至つた。
ルイ・フィリップの治下に於ては、もう劇場は一つの工場と化してゐた。
若い浪漫主義は、デュマ(〔Alexandre Dumas pe`re〕, 1802−70)と共に老い、スクリイブが十五年間に百五十の軽喜劇を書けば、デュマは、年に六十巻の小説を書く傍ら、一シイズンに十五乃至二十幕のチヤンバラ劇を上場せしめる有様である。
その間、ただ一つポンサアル(〔Franc,ois Ponsard〕, 1814−67)の「リュクレス」といふ作品の上場が、「|良識の《ボン・サン》劇」なる一流派をうち樹てた。「良識の劇」とは、要するに、浪漫主義の矯激を排し、穏健着実な古典精神を近代意識のなかに生かさうとする韻文劇であるが、どこかにまだ浪漫的な装飾を残してゐることは争へない。これが一八四三年のことであつた。
ポンサアルの「リュクレス」が一方で盛んな喝采を浴びたのに反し、その年、ユゴオの「ビュルグラアヴ」(Les Burgraves)が国立劇場で、無残な失敗を招いた。作品の罪といふよりも、寧ろ、見物が過剰なリリシズムに飽きたのである。
皮肉と云はうか、この時に乗じて、天下の名悲劇女優ラシェルが、同じ劇場の舞台に現はれた。すると、二十年来、絶えて客を惹かなかつたラシイヌ、コルネイユの古典悲劇が、忽ち見物席を満員にした。
一八五〇年は、バルザックの死んだ年である。(序に云へば、イプセンが二十三で、その韻文史劇「カテリナ」を発表した年だ。)
時代は急転する。所謂「近代精神」の色調が濃厚になり、仏蘭西の演劇史も亦、これ以後を現代と呼ぶのである。
小説壇は、既にバルザックの作品によつて写実主義の黎明を告げ知らせた。その影響は、勿論戯曲界にも及んで、一八五二年、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alex
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