有つてゐるのか、――と気が付いたときから、急に外国語に対する興味が起つて来る。しかも、それは文学といふものに対して、はじめて眼が展けた時でもあるのである。かういふことは、本来ならば、国語教育を通じて行はるべきことである。ところが、これまで日本の国語教育はどうも言葉としてのセンスを国民に与へるやうに仕組まれてゐなかつた。即ち現代の日本人の多くは国語を通じて文学的なセンスを掴み得ないで、むしろ外国語を通じて掴んだといふことが謂へると思ふ。要するに、従来は日本人に対して日本語教育が充分に行はれなかつた。その欠陥を非常に皮肉なことであるが、外国語教育によつて大部分補つてゐたとも謂へるのである。このことは、殊に外国の優れた文学的作品に接するやうになると、一層はつきりして来る。曾つて、或る時期には、外国語をやらなければ新しい現代の文学の真髄に触れられない――といふやうな、日本人として甚だ悲しむべき実情にあつた。将来、国語教育が一層進歩して、これが日本語の正しい力強い訓練といふところにまでゆき得たとしても、なほ且つ外国語が今日までに果してきたさういふ一つの役割は、外国語教育を担当する人々が充分に自覚
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