海の誘惑
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)濤《なみ》
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人影のない夕暮の砂浜を、たゞ一人、歩いてゐることが好きでした。
それは私の感傷癖と別に関係はないやうです。水と空とを包む神秘な光に心を躍らせる外、一向追憶めいた追憶にふけるわけでもなかつたのですから。まして、月が波の上に出るのを待つて、ロマンスの一節を口吟むほど甘美なリヽシズムをも持ち合せてゐない私なのですから。
が、然し、それは、私の空想癖とは密接な交渉があるらしく思はれます。なぜなら、あの岩角に当つて砕ける濤《なみ》の姿から、常に一つの連想を呼び起し、渺茫たる水平線の彼方に、やゝもすれば奇怪な幻影を浮び出させるのがおきまりだつたからです。
憂愁を歌つた世界最初の詩人、シヤトオブリヤンの墓から汀《みぎは》つゞきに、「エメラルドの浜」と呼ばれるブルタアニユの北海岸、そこは河原撫子の乱れ咲くラ・ギモレエの岬なのです。
ホテルとは名ばかりの宿に、私一人が客でした。
「何しにこんな処へ来なすつた」主人は私の顔を見るたんびに、かう訊ねかけたものです。
それでも、麦の穂が黄ばむ頃になると、松林を背にした宏壮な別荘――「プリムロオズ」と名のついたその別荘の前庭で、ナポレオンの血を享けてゐるといふ男装の美女が、葉巻をくゆらせながら、多くの紳士淑女に交つて、ゴルフなどをしてゐるのが見えました。
或る月曜日の午後、一台の辻馬車が、私の泊つてゐるホテルの前に駐まりました。車を降りたのは、一目でパリからの客とわかりはしましたが、どつちかと云へば地味なつくりをした、二十二三の女でした。
女は一人でした。
さあ、話が面白くなりさうです。と云つて、あなた方の予想どほり、月並な小説的事件が起るわけではありません。
彼女は三度三度食堂へ出て来ました。私は蒸肉の一と切れを自分の皿に盛りながら、いくらかの好奇心も手伝つて、彼女の住居などを尋ねました。
三日たち、四日たち、風が一度吹き、雨が二度降りました。
五日目の日が暮れかゝらうとする頃です。私は、例によつて、一人で、雨上りの砂浜を歩いてゐました。波が少し立つてゐました。何時になく疲れが早く出て、私は、とある岩角に腰を下ろしました。
私の眼は、もう幻想を追つて、砂と水と空との間をさ迷つてゐました。そこには、見知らぬ
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