れないやうな仕事がある。それを料理に例へてみると、国家のためには魚のこゝをかう切つた方がよからうと云つても、これはをかしなことだ。料理人としての時局認識から云つても、魚の尾を捨てる代りに豚の餌にしようといふくらゐが関の山だが、僕はさうぢやなくて、国民が今日国家のために役立つといふことは、もつと全人格の上に立つて考へなくちやならんと思ふ。一体自分は新体制であると個人的に云ひ切れる人は、実は本当に自分を見てゐるかどうか、もう一度考へ直して欲しいと思ふ。今日に至つて、このまゝではいけない、なんとか自分を鍛へ直さねばならぬといふ気持でゐるといふことをお互に知つて、もつと温く、お互に接し合はなければいかん。本当に必要なことは、個人がどう変るかといふことであるけれども、しかしそのためにお互に有無相通ずるといふ便宜な組織を作つて、さうして力の弱い国民が同じ国民としての働きができるやうに、引つ張つて行くことが肝要なのだ。
一体これほどいゝと分りきつたこと、或はやればいゝと分りきつたことがどうして今まで行はれないか。それは要するに、今までの政治家とか或は官公吏とかの責任のあり場所が曖昧なことによるのでせう。つまり或る人がそれをやらうとすれば、おつとそれはこつちがやるんだ。君のところでやつてくれと云へば、それは俺のところでやるんでないと、責任をとるんでもなく、与へるんでもない。これが到る処にある。これを一掃しなければ到底駄目だと思ひます。それで役人がやらないから民間でやらうとすれば、おつと待て、勝手にしてはいかんと云ふ。それでは役所でやるかといふと、こつちではしないと云ふ。どこでも問題が同じで、必要なものをあつちに転がし、こつちに転がし、宙に浮いてゐるといふ有様だ。
知識層のこと。僕はやはり文化部が知識層を動員し、知識層が動くことによつて、国民がついて行くといふ実績が示されねばいかんと思ふ。例へば地方娯楽にしても、知識層が地方の自主的なよいものを活かして行くのが本当で、自分の手で作り出させなければ結果はいけない。キャラメルを避難民にやるやうに、映画を農村にもつて行つて見せてやるといふ観念がいけないと思ふ。さうしてそれを見て村の人が喜んだ、感激したといふことで、その印象を何か誇らしげに語る人たちは、よほど注意して欲しい。どうして偶々もつて行くこんな映画に、彼等が飛びついて驚喜するかを考へたら、自分たちのやつてゐるより、もつと大事なことがあるのぢやないかといふことを考へなければならん。
学校・先生・青年
いろいろな学校の例を、聞いたり見たりしてゐるんですが、先生にもいろいろな型があります。一生懸命自分の研究を深めて行つて、その深めたものを生徒に正しく伝へようと工夫することが教師として一番正しいと確信してゐる先生。第二は、とにかく自分は専門家だ、知つてゐることを教へればいゝんだ、その教へるのには、先づ生徒の気持を惹きつけなければならん、そのためには自分の知つてゐることを深めることに努力するより、生徒と自分をなるべく近くして置いて、さうして物を与へ易くしようといふことに努めるのが、いゝ先生の代表的なものと考へてゐる先生。この二つを較べるとき、僕は後の方の教へ方は非常に間違つてゐると思ふ。さういふ先生を、生徒は本当に信頼してはゐないやうです。いゝ先生だと生徒が信じ切つてゐるのは、やはり勉強してゐる先生の方だ。これは殆ど例外なしです。生徒に表面人気があると見える先生は、本当は生徒から尊敬されてゐない。人気があると思ふのは先生自身だけで、客観的に見れば、いはゆる生徒にあまく見られてゐるのだ。これは日本の現在の、いろいろな意味での「道」が廃れてゐる一つの証拠で、道といふ言葉にはいろいろの意味があるが、友人道などでも、その友達に好意をもつならば、逢はなくたつてその友達に対する好意は変らない。友達に何かしてやつて、自分の好意を示さなければ気が済まないとか、非常に浅薄なことによつて友情を取結ばうといふことが、近ごろ友人間の道として、人が一般に認める事実になつたが、これは非常に間違つたことだ。同様に、教師と生徒の間も、本当に自分が教師として立派であることに努めることが、いゝ影響を生徒に与へることだ。これははつきりと確信をもつてやらなければいけない。ところが教師に対する社会の要求が、学問を伝へるだけぢやいかんとか、学生の手を引つ張つてやれとか、早く云へば小乗的な要求が多過ぎると思ふ。しかしこれは一方に、本当に教師の道といふものを知つてゐて、いゝ教師になることを努めてゐる人が少な過ぎるからでもあるが、本質を見極めず、一つの方針を樹てることができずに、なんでもない枝葉の部分で、非常に間違つた要求をすることが、いつでもいろいろなところで多いのです。例へばいま、臣道といふことが云はれてゐる。日本国民の道といふこともそれと同じだ。立派な日本国民になるといふのはどういふことだといふことを、もつとはつきりさせねば、教育の根本は始終ぐらつかなければならん。
学校教育と関連して、一般青少年の理想だが、これも今までのやうな考へ方から変へて行かなければいかん。今まで、偉い人間といふのは、なんとなく勲章を沢山つけた人とか、自動車を乗り廻す人とかいふ風に考へられがちだつた。立身出世主義をみんなの力で取除くことだ。さういふ社会的の立身出世でなく、社会がかういふ人を尊敬してゐる、またさういふ人の仕事は、社会的に名誉を以て報いられると同時に、物質的にも酬いられるといふことを、はつきり知らせる運動を起すべきだと考へます。名誉がいろいろな形に現れて来るから、やはり不純なものになる。大きな家にでも住んでゐれば、それが何か名誉のやうな錯覚が、民衆の頭に沁み込んでゐるからいけない。一方から云ふと、不名誉にもならないやうなことが、不名誉扱ひを受けてゐたりする。この社会の通念を矯正して行くためには、ジャーナリズムなど与つて力があると思ふ。
明治以来の、いはゆる誰でも偉くなれるといふ気運が、これを作つてしまつたんでせう。ところが誰でも偉くなれるといふ気運は一時の傾向で、さういふ情勢を遥かに超えてゐても、まだその気分だけが抜けず、足掻きを続けてゐるといふ現状です。誰だつて政治家にもなれ、軍人にもなれることは間違ひないけれど、さういふ社会的の地位だけが出世の目標であつてはならないのです。一勤労者が公のために、目立たないがこれだけの仕事をしてゐるといふことを少くとも知つてゐる人間が敬意を表して、その人に頭を下げるといふ気運が、どうしても出て来るべきでせう。どうも今までは、人間性といふものに対する、本当の教育の根本がなかつたのです。お互にあの人は立派な人だといふ標準が、もつと変つて来ねばいけない。
教育と政治と結びつき、多少極端な方針がそこに加つて来ると、立派な国民であれば立派な人間でなくてもいゝといふやうな、殆ど考へられないやうな方向に逸れて行くことがある。
新しい時代の日本人の形といふものは、作家には興味のあるものですが、何か作品で、さういふものを捜してゐる人はゐませんか。新しい日本人の型といふ問題を……。
こなひだも云つたが、形は旧くてもいゝが、日本人として望み得るやうな、一つの未来の日本の姿を、固くならないで、ユートピヤ小説の形で書いて見る人がゐると面白いだらう。
表現に於る政治性
文化人と云はれてゐるものが、他の社会の人とわかり合ふことが、予想以上に大変だといふことを今痛切に感じてゐます。それも、われわれを他の社会、他の部門の人にわからせることが一層困難だ。他の部門の人の云ふことは、割に、わからうと努力すれば、これはわかる。われわれは、あまり他に通じにくい言葉を使つてゐるんではないかと僕は痛切に感じるんです。いま文化部門、殊に文学芸術の畑で話してゐたものが、他の一般社会にものを云ひかけるといふ場合には、表現をもつと工夫しなければならん。お互のなかで感じ合ひ、通じ合つてゐたことをそのまゝ不用意に他の世界に使用しても、相手には通じない。その場合、僕もいまゝで罪は向うにあつて、それがわからないのは、文化的教養が彼等に欠けてゐるからだと思つてゐたが、必ずしもさうではなくて、文章を書くにも十分注意しなければならないと考へるやうになつたのです。
平生からもう少し一般文化面に興味をもち、綜合雑誌や小説や文芸評論などを読んでゐれば、僕等の云ふことがそれ程わからなかつたり通じない筈はないといふ風に今までは思つてゐた。しかし、たしかにさういふところもあるには違ひないが、今では、それをどうしても通じさせねばならんのです。向うに勉強なさいと云つたところで間に合はない。どうしても、自分たちの云はうとしてゐることを、相手がわかるやうな言葉で、或は云ひ方で表現することが必要になつて来た。しかしそのために、こつちが相手のレベルまでさがることはちつともないので、これははつきりしなければならぬところです。同時に向うの考へ方、例へば政治家としての考へ方について、われわれはさういふ要素があまり無さ過ぎて、今度は向うの表現そのものゝ中に、真理といふものを発見できない場合があるんです、あり得るんです。われわれのものの考へ方は、あまり現実から離れてしまつてゐるといふことも、一応反省しなくちやならない。その呼吸さへわかればわれわれが云はうとする主張が、もつと向うに正しく受容れられるところが随分ある筈です。お互の協力を強めるために、さういふ努力をすることが実は今日一そう必要なんぢやないでせうか。兎も角、今日の段階は、相手を克服して、自分がそれにとつて代らうといふ時代でなく、お互が協力すべきときであるだけに、先づこつちの云はうとすることを、正しく受けとつてもらふことが必要なわけです。そのためには俗な意味での妥協は不必要だが、相手にとつて疎遠な表現によらずして、少くも相手に親しみのある表現を使ふところまで努力しなければいけないのではないですか。
例へば政治の文化性といふ云ひ方なども、政治家には通じない。それを云ひ方を変へれば、わかるといふことがある。それで何処までも政治の文化性などといふ云ひ方でおし通さなければいかんといふことまで考へなくともいゝ。もつとそれをいろいろな云ひ方で、表現するだけの努力を、一般にして貰ひたいと思ふのです。
文学者の言葉にしろ、文章にしろ、文字面とか、意味とか、論理的にはわからん人はないが、文章の雰囲気、言葉の調子といふものが通じないのです。文学者でなければないもの、それによつて政治を新しくしなければならぬといふことは、勿論云へる。また一般民衆は、文学者の云ひ方に余計魅力を感じ、その方がよくわかるといふことも事実で、僕も今の知識層の動きが、寧ろ政治の力よりも、一層民衆に対して働きかける力が大きいと思ふ。であるからこそ、政治に文化性を与へる役割は、知識層がこれを引受けなければならないし、さうすることによつて、政治を民衆に近づけ、民衆を本当に動かす力を政治にもたせるやうに、われわれは努めなければならんのです。
政府から出る公文書や声明書でも、考慮の仕方によつてはもつと大衆に近づき、もつと大衆の心に訴へさうなものがあるんぢやないかと思ひます。何とかもつとうまく云つて貰ひたいと思ふことがよくあるのだが、なかなかむづかしい。当局に注意したいんだが、向うには通じない。文章の巧拙などの問題でなく、そこに何が足りないかといふことを、本当にはつきり指摘して、訂正して貰はなければならんことですが、それは今度みたいな仕事をしてをれば、云ふ機会もあるし、云はうといふ意志もあるが、なかなかにむづかしいことです。
その人でなければ云へないことを、みんな省いてしまふ。さうして誰が云つても間違ひのないことだけが残る。さうして出来上つたものが非常に間違ひないことは事実であるかも知れないが、何か一つの力が抜けてしまふ。然るに個人や民間でものを云つたり、書いたりする場合にはさういふことが全然ないから、それが一
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