既往文化と新文化
――某氏との談話――
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ドン/\
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通念の更新
一体、国防国家といふものゝなかで、文化はどういふ取扱ひを受けるべきかといふ問題ですが……この点に関しては、実にいろいろの意見があるやうです。すなはち、文化問題に就いてはまだ考へ及んでゐない、これは後廻しだといふ説が出たり、或る場合には、今までとにかく出来上つてゐる文化自体を、こゝで利用すべきだと考へられたり、一方また既往の考へ方では文化の発展などは望まれず、全く、国防国家のために必要な文化だけをこれから作り上げるべきだといふ考へ方等々が今日ではごつたになつてをるわけです。こいつを僕等はもう一応はつきりと決めてかゝらなければいけないと思つてをります。
政治に文化性を与へるといふことにしても、われわれが今日まで、かうあるべきものと考へてゐた文化と、方向を転ずべき今後の日本に於る文化との間には多少相違があるのではないかと思ひます。それを曖昧にして置いては、文化部門の仕事も一そう困難だ。例へば文化の擁護といふ立場になると、これはもうこゝでわれわれは討死の覚悟をしなければならん。そんな消極的な立場でなく、新しい文化の建設といふ方に、若し行き得るものとすれば、これは今までの文化の意識と、やゝ変つた文化を目指さなければならん。この新しい文化について、僕等は本当にもう一度、はつきりした意識をもつやうに、勉強しなければならない。いゝ加減な、今までの文化の概念に囚はれてをると、僕等は動きがとれなくなるのぢやないかと思ふのです。かういふ時代にこそ、どうしても国民は何か新しい文化が生れるんだといふ希望をもたなければ、いかに建設的な言説を繰り返しても、それは空論に終ると僕は思ふ。さういふ意味で、余程しっかりと腰を据ゑないと、却つて国民を誤ることになると、僕自身は考へてゐるのです。日本の一般知識層の考へてゐる文化の通念は、こゝで再批判の必要が僕はあると思ふ。
一般的に云つて、かういふ考へ方もできると思ふ。つまりかういふ時代のかういふ政治情勢下に於て現に圧迫を受けてゐるのは、必ずしも文化の健全な面ではなく、寧ろわれわれも既にさういふものとは十分戦つて来てゐるやうなものが圧迫を受けてゐるといふことです。たゞその場合、一方の認識が足りないために、健全なものも少なからずその巻き添へを喰つてゐるといふことです。そこでこの不健全なものと健全なものとは完全に区別できるのだといふ希望が与へられなければ、どうもわれわれは仕事ができにくい。文化の全面に亘つて本当に圧迫を受けてゐるんだつたら、われわれは時代と戦ふより外はないわけです。それではかういふ時代に希望をもつといふことはとてもできない。若しさうであれば公然とそれを云ふべきだ。然るに不健全なものがあつて、それに繋つてをる健全な部分が巻き添へを喰つてゐるのであれば、常に希望を失はずに寧ろ今までの不健全なものを克服するための努力を傾倒しなければならない。さういふ風に起ち上らなければ、一緒に巻き込まれて犠牲になつてしまふ。やはり今までの不健全なものと絶縁するといふ態度で行かねば、これからの健全な文化は作つて行けないのではないかと思ふのです。僕が今度こんな仕事を引受ける気になつたのも、考へがさういふ風に向つてをつたからだと思ふのです。
私生活面の文化
一般的に極く広い意味に於る文化を考へる場合、即ち文化の時代性、文化の水準を、全体として考へる場合、僕は地域的に都会に文化が集中して、田舎には文化が浸潤してゐないといふ考へ方を、大雑把には信用しないのです。或る場合には田舎の方に却つて水準の高い文化の遺産があつて、そこを離れた、近代化した都会のなかで、さういふものが亡びてゐるやうなことも考へられるのです。たゞしかし、文化の地域的偏在といふことも亦いろいろな意味で云へると思ふ。僕は、それぞれの地域が、それぞれの優れた文化をもつてゐる状態が一番理想的と思ふのです。一国の文化政策としても、或は国民のそれぞれの社会的関心といふ点から云つても、さういふ方向に向つて努力しなければならんと思ふ。たゞ今後の健全な文化とは一つは生産面に於る文化、もう一つは生活から遊離したところに発展したものでなく、本当に生活に根を下した、生活現象の発展としての文化でなければならぬ、といふ、二つのことが云へると思ふ。日常生活のなかにその人間の文化性、或は文化的価値を見ることが、今まで比較的少なかつた。今までと云つても、極く最近、明治の末期頃から一層さうなつたので、例へば一人の甲といふ人間を考へた場合、政治家なら政治、学者なら学問といふ、その専門的な部門では、立派な仕事をしてゐるが、一度この人間の生活――普通私生活といつてゐる部分、さうして、その私生活に寧ろその人間の全貌が実際現れるわけなのだが――を観るとその人の公の生活の中に十分発揮されてゐる人間的価値と幾分違つた形で、いはゆる非文化的な状態でそれが現れてゐるやうなことも度々あるのではないか。今後は人間の価値標準などももう少し実質的に見なければいけない。どうも今までは、仕事を生活の他の面から孤立さして秤にかけるといふところがあつたやうです。これなども、今後の文化を考へる場合、改めねばならぬことゝ思ひます。今日、職域奉公といふことが非常にやかましく云はれますが、作家は、作品を書くことが奉公でなければならん。さうするとすぐ作品そのものに何か奉公といふ精神がなければいけないといふやうに、ものゝ考へ方が狭くなつて行くやうな傾向が現在あることは、非常に危険だと思ふんです。人の仕事といふものは人の生活から出てゐるんだ。その人の人格全体、その人の生活全体が、現在の時代に役に立つて行けばそれでいゝので、逆にだんだん人間と社会の接触する面を狭めて行くやうなものゝ見方が、また起りかゝつてゐることは、大いに警戒しなければならんと思ふのです。一番極端な例は、八紘一宇とか、臣道実践とかいふことを、口の先で云つてゐれば、万事通用するなどゝ簡単に考へてしまふことです。鼻の頭にちよつと看板をぶら下げて置けばいゝといふことになつては大変だ。
隣組の力
隣組が出来たので、自分たちの生活内容が豊かになつたと喜んでゐるものもあり、或る処では、隣組が出来たから非常にうるさい、何か拘束を受けるとか、私生活の秘密を覗かれるとかいふので、いやがつてゐるやうです。が、運用の仕方によつては、非常にうまく行つてゐる例を知つてゐる。僕等なんかの側から云へば、隣近所と交際したからといつて、損をするところはないのだ。個人といふものゝ本来の観念から云へば、ちつとも他人から侵されるものはないので、隣組は、非常に理想的な形で僕等の頭に浮ぶんです。僕等の知つてゐる連中のなかでも、やああれはうるさい、迷惑だと云ふのが相当ゐるんだけれど、考へてみると、うるさいなどゝ云ふ連中は、これが旧体制と云つていゝかどうか知らないけれど、どうも時代の落伍者といふ気がする。ちよつと背中をどやしてやりたい人物に、そんなのがゐる。
日本人は本当に今力を協せなければ駄目だ。結局隣組が、本当に健全に発達しなければいけないので、都会生活は、隣同士が知らないからこそ暢気で都合がよいとか、都会の魅力は、お互が他人だといふ点にありとか公言してゐる人が未だにあり、僕等も嘗てはさういふ気分を肯定したこともあるが、然しこれは非常に時代遅れの考へ方です。
隣組も今のところ、非常に消費面ばかりだといふ説もありますが、それは運用の仕方にあるわけですから、隣組の機能をすべて消費的な面として片附けてはいけない。また、生産といつても、物質的生産ばかりでなく、もつと精神的な面も沢山あります。殊に文化運動――全国的に文化運動を巻き起すためには、多々困難な条件が必要です。現在の地区的、局地的の運動を多少でも発展させるためには、隣組を単位とし、これが町会に拡り、少くとも僕の考へでは、町会別のものが単位になり、その単位の上で真の文化的指導者が、その新しい目標の下にいろいろな施設なり、或は共同生活の面での娯楽とか、教養とか、お互の社交とかの指導に当るといふことが最も効果的であると思ふのです。さういふことは、消費面とは云へない。それは精神的生産面だと思ふのです。
指導者について
さうなると結局指導者の問題になつて来ると思ひますが、今までの知識層のもつてゐるものが、十分こゝで利用し得るわけです。知識層が自分のもつてゐるものを利用し得ないのは何によるかといふと、たゞ自分に対する自信のないことだと思ふのです。知識層がみんな自信をもつて、自分が立派に指導者になり得るといふ気持になれば、もう直ぐに指導者たる資格をもつてゐるんぢやないかと思ふのです。ところが一般に知識人は、今のところ、その自信をもつやうに努めてゐないと云へるんだ。さういふ点で、自信の無さが自分の聡明へのプライドであり、これで自信なぞもつてゐると思ふやうだつたらおしまひだといふ風に考へるのが、今までのインテリゲンチヤの通弊だつたのではないかと思ふ。知識層がお互にもつと相手を信じて、さうして、めいめいがもつと自信をもつて起ち上る必要があると思ふ。それには、たゞ自信をもつといふことだけでも足りないのだ。これはやはり、民衆なり人なりを指導する技術といふものを、もう少しもたなくちやいかん。
僕の考へでは、たしかに政治的の力といふものは今までより強くなつて行くが、政治的の力を形づくる要素といふものも、今までのものより、ずつと広く大きくなつて行くだらう。さういふ意味から云へば、現在のところ、今までに政治力のなかに入らなかつたやうな民衆のいろいろな要素が、それに加つて行く道が、寧ろこれから拓けるんぢやないですか。この機会に、それがなるべく沢山はひつて欲しいと思ふのです。翼賛会がさういふことに役に立てばそれだけでもいゝと思ふんです。今翼賛会の一番大きな本当の仕事は何かといふと、官制の改革と議会の改革で、これが誰の力でもできない。役人と代議士では官制の改革も、議会の改革もできないから、第三のものが出来て来たのが、この翼賛会だと思つてゐる。それなら、これは今までの政治力の上に、さらになんらかの力を加へなければいけない。それを、革命といふ形でなくて変へようといふ、日本的の含みのある一つの運動だと僕は解釈してゐる。随つてこれは、公明正大なる心で、政治に対して一番よく発言のできる時代になつたとも云へませう。これが或る時期を過ぎて、また固定すれば、いろいろな弊害が出来るかも知れないが、今は少くともさういふ時期で、知識層がこゝで起ち上つて、日本の今までの政治のなかに足りなかつたものを、ドン/\入れるやうに努めなければいかんと思ふ。さういふことの役割が、翼賛会のなかの文化部で果し得られゝばいゝ。また文化部だけでなく生活指導部、青年部なども、さういふ役割を十分果し得るのぢやないか。そこにゐるメムバーを見ても、いろいろな意味で、少くとも今までの官僚とか政治家といふ人たちよりも新しい考へをもつてゐる人があり、或は官吏のなかの新しい考へをもつてゐる人が、今まで実際に考へてゐても現実の政策の面に十分生かし得なかつたやうなところも、さういふ力がそれに加はることによつて、何かしら別に、今までと違つた結果が現れる可能性がいくらか多くなつたのぢやないかと思ふのです。
とにかく、こゝでどうにかなるだらうと、手を拱いてゐたら、一層悪くなるばかりなのです。
「職域」について
職域奉公といふ言葉を玩んではいかんと思ふ。或る仕事によつては、その仕事自体が国家のためといふ看板がかゝつてゐて、さういふ人々は遊んでゐて、煙草をふかしてゐても、国家のためになつてゐるつもり――少くともそんな顔ができる。さうでなくて、その仕事をどう考へて見ても直接に国家のためとは云ひ切
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