う声が出ませんのです。
見覚えのない顔でございますけれど、若い、逞ましい顔でございました。浅黄色の上着《うはぎ》で、火夫だといふことだけわかりました。一口《ひとくち》も口を利かず、たゞそのからだだけで迫つて来る力に、わたくしは、取りひしがれてしまひました。「あんたは、だれ? え、だれなのさ」……わたくしは、たゞ、さう呻きつゞけました。意気地《いくぢ》のないことでございました。でも、外に、どうしやうもございません。わたくしは、夢の中で、男の後ろ姿に叫びかけました。「ちよつと、待つて……。あたしを、どうする気なのさ……ねえ、待つて頂戴……もう一度、顔を……あんたの……それぢや、名前を聞かして……名前だけ……」(彼女は、そこで、たうとう、泣き崩れる。夫人は、これも、感動を抑へきれず、そつと、袖口で、眼をおさへる)

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やゝ長き間。
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るい  御免遊ばせ、奥さま……。こんなに、取乱す筈ぢやございませんでした。
夫人  それで、その男は、どうしたの?
るい  翌日、わたくしは、機関室を、隅から隅まで訪ね
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