よつと、失礼いたします。今夜、九時にお着きになるお客様がございますので、お部屋の支度をさせて参ります。
夫人  さあ、どうぞ……。

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るいの姿が右手に消えると、そこへ京野が食後の煙草を喫ひながら現はれる。
夫人は静かに起ち上つて、左手の窓ぎはに歩を運ぶ。
京野はさりげなく、そつちへ近づいて行く。
二人はしばらく、同じやうな姿勢で窓の外を見てゐる。
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京野  失礼ですが、奥さんは、小倉三郎君のお姉さんぢやいらつしやいませんか。
夫人  いゝえ。
京野  さうですか。それはどうも……。小倉といふのは僕の友人なんですが、丁度その姉さんが土屋といふ姓になつてゐるといふ話で思ひ出したんです。
夫人  土屋なんていふのは、ざらにありますわ。
京野  さうでせうか。でも、同胞《きやうだい》のやうに似てゐるといふのは、さうざらにはありませんよ。また、失礼かも知れませんが、小倉つていふのは、奥さんそつくりですからね。
夫人  無理に似せておしまひにならなくつても、ようござんすわ。御退屈でしたら、お話のお相手ぐらゐ、してさしあげますわ。(腰をおろす。笑ふ)
京野  いやだなあ、さう皮肉に出られちや……。しかし、小母《をば》さんだつておんなじレコードには聴き飽きてらつしやる筈ですよ。
夫人  ちよつと、お待ちなさい。人のことを小母《をば》さんだなんて、あなたは、いつたい、おいくつ?
京野  僕、二十一です。小母《をば》さんは?
夫人  不良ね、あなたは。
京野  あの婆あが、なにか喋《しやべ》つたんでせう。
夫人  婆あつて、だれ?
京野  僕から御注意申上げときますが、あの婆あに、話をしかけると、うるさうござんすよ。僕の母に云はせると、少し頭へ来てやしないかつていふんですが、そんなこと、お気づきになりませんか。
夫人  なるほど、人を気狂《きちが》ひにしてしまふつていふのは、便利ですわね、でも、気狂《きちが》ひが、ほんとのことを云ふ場合だつてありますし、どこからがさうだとは、云ひきれませんわ。今、実は、あの人の、身の上|話《ばなし》つていふのを聴かされたんですの。あなた、お聴きになつた?
京野  いゝえ、僕には聴かせませんが、僕の母には、何時《いつ》か、やつたさうですよ。閉口したつて、さう云
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