いませう。しかし、いよいよといふ間際に、いつも、男の姿が眼に浮びますんです。
「何処かにゐるんだ」――さう考へますと、また、どうしても、決心が鈍つてしまひます……。さうかうしてゐるうちに、月日はずんずんたつてしまひました。
あんなに死にたいと思つたことが、不思議なくらゐに、すべてを諦めてしまつたんでございます。さういたしますと、過ぎ去つたあの出来事を、一生のうちの、忌《いま》はしい記憶にしたくないと思ふやうになりました。したくないと申しますと変でございますが、自然、別の眼で、あのことを見るやうになつたんでございます。つまり、生涯に、たつた一度の経験とでも申しますか、それは、考へやうによつて、わたくしには、尊い思ひ出なんでございますから……。いえ、別に、それを自慢にいたすんぢやございません。悲しい女の運命は、さういふところにも慰めが欲しいんだと、お思ひ下さいませ。あゝ、長々と、お喋《しやべ》りをいたしました。ほんとに、よく御辛抱下さいました。もう、大分、時間がたちましてございませう? 奥さま御食事は……?
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夫人  かまひません。まだ早いんですから……。
るい  それでは、奥さま、こんな話をお聴き下さいました序《ついで》に、ひとつ、奥さまの御意見をおつしやつて下さいませんでせうか。
夫人  意見ですつて?
るい  いゝえ、ね、奥様、今の、その男でございますがね、ほんとに、どうお思ひ遊ばします? 今更、どつちでもいいやうなもんでございますけれど、ひとつ、参考までに、奥様のやうな方のお考へを伺つておきたいと思ひまして……失礼でなければどうぞ、是非、御腹蔵なく……。
夫人  その男の、態度についてですか? 意見つておつしやるのは……?
るい  はい、まあ、態度と申しますか、その気持でございますね。わたくしに対しましての。
夫人  さあ、それは、あんたのお考へ通りでいゝんぢやありませんか。どう考へなけれやならないつていふ問題でなく、人によつて、どう考へてもいゝ問題だと思ひますね。あなたは、なかなか、哲学者よ。
るい  学者なんて、滅相なことでございますけれど、いろいろ考へてみるのは好きでございましてね。
夫人  えゝ、まあ、議論はよしませう。(さう云つて、大儀さうに横を向く)
るい  はい……。わたくし、ち
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