う声が出ませんのです。
見覚えのない顔でございますけれど、若い、逞ましい顔でございました。浅黄色の上着《うはぎ》で、火夫だといふことだけわかりました。一口《ひとくち》も口を利かず、たゞそのからだだけで迫つて来る力に、わたくしは、取りひしがれてしまひました。「あんたは、だれ? え、だれなのさ」……わたくしは、たゞ、さう呻きつゞけました。意気地《いくぢ》のないことでございました。でも、外に、どうしやうもございません。わたくしは、夢の中で、男の後ろ姿に叫びかけました。「ちよつと、待つて……。あたしを、どうする気なのさ……ねえ、待つて頂戴……もう一度、顔を……あんたの……それぢや、名前を聞かして……名前だけ……」(彼女は、そこで、たうとう、泣き崩れる。夫人は、これも、感動を抑へきれず、そつと、袖口で、眼をおさへる)
[#ここから5字下げ]
やゝ長き間。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
るい 御免遊ばせ、奥さま……。こんなに、取乱す筈ぢやございませんでした。
夫人 それで、その男は、どうしたの?
るい 翌日、わたくしは、機関室を、隅から隅まで訪ねて廻りました。うろ覚えに覚えてゐる顔を、どうかして見つけ出さうと思ひましたんです。駄目でございました。石炭で真黒になつた同じやうな顔が、眼だけ光らして、わたくしの方を、迂散臭く見てゐるだけでございます。それからは、港に着きますたんびに、船員たちの出入口に立つて、一人一人、顔を検《しら》べてもみました。皆目、見当がつきません。
夫人 ぢや、若し、その男を見つけ出したら、あんた、どうするつもりだつたの……。
るい それがでございますよ、奥さま、わたくしに、どうすることができませう……。それや、むろん、ありつたけ恨みも云ふつもりでをりました。場合によつては、復讐をしてやるくらゐの考へもございました。しかし、いよいよ、相手がわからないとなりますと、たゞ、ひと目、会ひさへすればといふ気になり、今、「おれだ」と名乗つてくれゝば、なにもかも赦してやらうとまで思ひましたんです。
[#ここから1字下げ]
ですが、それも望みがないとわかつた時、わたくしは、もう、生きてゐる心地がいたしませんでした。誰よりも、自分が憎らしうございました。今日は死なう、明日は死なうで、なんど、海の底をのぞき込んだことでござ
前へ
次へ
全19ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング