ございました。船がシンガポールを出まして二日目の晩でございます。あんまり蒸しますので、そつと、寝間着のまゝ、人つ気のない、艫の方の下甲板へ上つてみました。帆を巻いて積んだ上へ、ボートの底が低く垂れてをります。誰も見てゐないつもりで、少しはだけた胸へ、その陰で、いつぱいに風をいれました。無造作に止めた髪が、ぱつと肩へ散りかゝつて、それがそのまゝ、後ろへ靡くんでございます。空は晴れて、星がいつぱい出てをりました。あの辺の星と申しますのが、お聞き及びでもございませうが、妙にピカピカと光るんでございまして、色も、日本で見るのとはまるで違ひます。こんなところで、お星様の話など、をかしいとお思ひ遊ばすか存じませんけれど、そのお星様をみてをりますと、心の汚れをすつかり忘れてしまふやうな気がいたしますんです。以前、お嬢様のお伴《とも》をして教会へ参りました時も、あのオルガンに合せて、みなさまがお唱ひになる讃美歌を、なるほど魂が清らかになると思つて伺つたことがございますが、それとは違つた、もつと晴れ晴れした、かういふところがうまく云へませんのですけれど、自分はもともと清浄無垢な人間だといふやうな、うれしい得意な気持になるんでございませうか。一生、男の肌に触れないでゐることが、どんなに仕合せなことかと、そん時も、つくづく思つたんでございます。「さあ、あたしのからだは、あなただけに捧げます」――こんな風なことを口の中で申しながら、両手をひろげて、眼の前の、海と空とを抱く真似をいたしました。そして、大きく呼吸《いき》を吸ひ込むと、もうぢつとしてはゐられずに、欄干《てすり》の上へいきなり、俯伏せになつてしまつたんでございますよ……。しばらく、さうして、波の裂ける音を聞いてをりました。
そのうちに、だんだんまた、わけのわからない悲しみがこみ上げて参ります。
これではいけないと思ひまして、また、空の方へ、眼をうつしました。このはずみに、ひよろひよろと後ろへよろめいて、そこに積んでございました帆の上へ、軽く尻餅をついたと思ひますと、自分ながら大胆でございました。それをいゝことに、その上へ、今度は、仰向けに、寝そべつてしまつたんでございます。
その時でございました。ちらと、黒い影が、頭の上をかすめた瞬間に、大きな男の両腕が、眼の前へ伸びて参りました。
声を立てようといたしましたが、男の顔を見ると、も
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