れば、その日その日が真つ暗でございます。かうしてをりましても、明日のことは、考へようにも考へられないぢやございませんか……。(そつとハンケチを出して涙を拭く。が、調子は前よりも朗らかに)ですけれど、わたくし、今でも時々、このホテルが、船の中みたいに思へることがございますんですよ。ほら、波の音が聞えませう。燈火《あかり》を消して、寝台《ベッド》に寝てをりますと、なんですか、自分のからだが、部屋ごと動いて行くやうな気がいたしますの。いゝえ、さういふ時ばかりぢやございません。廊下の掃除を見廻つたり、かうやつて、こゝで蓄音機をかけたりしてをりますときでさへ、急に、今度は、何処の港へはひるんだつけ、などと、とてつもないことを考へ出すことがございますんです。そんな時は、娘時代のやうに、動悸が高くなつたりして、自分でも可笑《をか》しいくらゐでございますよ。それで、近頃は、自分でわざとさういふ気分を作り出すやうにいたしてをりますの。割にうまく行くんでございますよ。窓から不意に、外の芝生が見えたりいたしますと、今度は、逆《ぎやく》に、がつかりすることがございます。
夫人 どうして船をおよしになつたの?
るい それがでございますよ。奥さま……わたくし、怪我をいたしましてね、こゝの骨を(胸を押へ)二本、ポキリと折られてしまひましたんですの。
夫人 まあ、危《あぶな》い。何処かから落ちでもして……?
るい いゝえ、ロープに足をすくはれたんでございます……。荷物を揚げますときにね……綱がございませう……あれでよく、やられるんでございますよ。
夫人 それでも、船は懲りませんか?
るい 自分の過《あやま》ちでございますもの。
夫人 さう、さう、さつきの、肝腎のお話は……?
るい なんでございましたつけ……あゝ、わたくしのロマンスでございますか。……(笑ふ)
夫人 (これも、釣り込まれて笑ふ)御自分のロマンスとおつしやるからには、よつぽど自信がおありなのね。
るい (また笑ひこけ)奥さま、いけません……。ぢや、もう、それは申上げません。
夫人 あら、そんなことつてないでせう。前置きだけ聴かしといて……。
るい それも、長たらしくね……。いえ、別に前置きのつもりぢやなかつたんでございますけど……話が、から下手《へた》でございましてね……。余計なことばかり申上げました。
夫人
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