ますか、御主人の自慢になりますか、存じませんけれど、さういふわたくしは、まつたく仕合せだつたと申すんでございませう。お嬢さまが、大きくおなり遊ばす間に、自分も年を取ることを忘れてゐたくらゐでございますもの……。
夫人  (微かに笑ふ)
るい  はい?
夫人  いゝえ、なんにも……。
るい  さういふ風で、上のお嬢さまは、こちらで、ある外交官におかたづきになり、次の坊つちやまは、香港《ホンコン》の学校を卒業なすつて、そこの商館へお勤めになる……そして、最後に、わたくしのお附きしてをりましたカザリンさまが、いよいよお年頃におなり遊ばしたので、それを機会に、お国の御親戚へお預けになるといふことになりました。多分、御縁談の都合もおありになつたんだと存じます。それで、そのお国までのお伴《とも》を、わたくし、させていたゞきましたんです。このわたくしが、ひとりでそんな大役を仰せつかつたんでございますから、なんと申しますか、もう、自分のことなど構《かま》つてはをられません。四十幾日といふ船の中で、それこそ、夜もろくろく寝ずじまひでございました。私がマルセイユといふ港へ着き、そこへ倫敦《ロンドン》からのお出迎へがございまして、わたくし、ほつといたしましたんですが、その船でまた日本へ帰つて参ります時は、精がなくて精がなくて、どなたの前でも、つい涙がこぼれるんでございます。事情を御存じの事務長さんや、チーフ・メートさんが、いろいろ御深切におつしやつて下さいますし、わたくし、たうとう、それから、御主人にお暇をいたゞいて、馴れないことではございますが、その船で働いてみることにいたしましたの。縁と申すものは不思議なものでございますね。夢にも考へてをりません船の上の、云はゞ命がけといふ仕事でございませう。それが、ぴつたりわたくしの性《しやう》に合ひましたんです。海が荒れるくらゐ平気でございました。殿方でさへ、召上りものが進まないといふ日に、わたくし、却つて、御飯が余計いたゞける始末で、みなさんから笑はれたんでございますけれど、ほんとに、海上生活つて申すものは、よろしうございますね。毎日毎日が、云ふに云はれない楽しみでございましてね。先々の港が眼に浮びます。始終、明日を待つやうな気持は、陸にゐてはわかりません。殊にわたくしどものやうに、自分の望みといふものがないものには、せめて、行先のあてでもなけ
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