会得し得る表現によつて、文学は成り立ち得ないであらうか?
文学者同志でなければ通用しないやうな言葉身振りが、文学そのものをいかに狭くし、時によると、どんなに無力にしてゐるかを、私は幾多の例について語ることができる。
文学の独自性といふものは、そんな狭苦しいところにあるのではない。詩や小説は、世間の何人がこれを論じてもをかしくない性質のものだ。政治家でも軍人でも実業家でも技師でも、好きな時好きな場所で、文学の話ぐらゐできなくては困るのである。現代の日本には、それをさせない「何か」がある。空隙か、障碍か? 恐らくその両方であらう。
われ等ひと度、何人かの面前で、自分の職業を口にするや、一座の空気は忽ち凝固し、話題は一筋の糸の上を伝つて、危くトンチンカンに終るのが関の山である。そこで、われわれ文学者は今、いかなる時代に生き、いかなる役割を演ずべきかが問題となるのである。
文学に対する国家的インテレストとか、文学者の社会的地位とか、体裁ばかりがどうなつても仕方がないといふ意見も、成立つと同時に、案外そんな掛声から、実質的なものが生れて来ないとも限らないといふ見方も、信用できなくはない。
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