的技術が近代生活の表現に適せぬことが明かであつた演劇の部門に於いてのみ「在来のもの」で間に合はせようとした怠慢をこゝに指摘しなければならぬ。
 察するところ、音楽美術にあつては、所謂外人教師を雇ひ入れゝばそれですみ、また、それでなければならぬと思ひ、演劇の畑では、外人の指導者に一任することの困難がすぐ感じられ、それでなければなんにもならぬと早合点をしたためであらうが、それこそ、演劇なるものに対する根本的な無知識から来た錯覚なのである。
 これは、今日では誰でもわかることだが、われわれは、文学をすら西洋から学んだと云ひ得るのであつて、その文学は見事に西洋文学の亜流ならざる独自の近代性をもつて、今日の日本文壇を形づくつてゐる。わが現代文学が実際国家の庇護の外にあつてよく今日を成したといふ説は、一応、肯づけ、その独立不羈の精神を否定するものではないが、私の観るところ、やはり、理論の上にも創作の上にも、官立大学の温床的役割は看過すべからざるものだと思ふ。同じく多くの文学的才能を出した私学は、官学あつての輝かしい存在であることはいふまでもない。

 さて、文学は文学として、演劇の部門であるが、当
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