である。例へば、その当時として、官立の美術学校及び音楽学校を創設したことなどはそれである。これら二つの機関が今日までどれほどのことをしたかは観る人によつて異るであらう。私のいひたいのは、たゞ、この西洋模倣のアカデミイが、実は、国際的な新日本芸術の揺籃であつたといふ事実を誰も否定しないであらうし、それは、時代へのよき刺戟であり、民衆への啓蒙であり、殊に生気あるアンデパンダンの育成を促した間接の役割に至つては、皮肉でなく、これを認めないわけに行かぬといふことである。
 その結果は、西洋音楽も西洋美術も、今日では立派に日本化され、われわれの日常生活に浸透し、民衆の大部をその保守的な趣味から解放し、国際的な洋服風俗と共に、自然な美的表現の感覚を養はしめたのである。
 如何なる国粋主義者も、軍楽隊を和楽化しようとは思はず、国歌の曲譜が三味線や尺八にのらないことを嘆じもしないし、銅像は東洋風の技法でなければならぬと誰も注文はしないのである。
 ところで、さういふ音楽、美術のアカデミイに対して、明治初年の為政者は、それほどの賢明な見透しと決断を示したにも拘らず、同じく「西洋」から学ぶ必要があり、伝統
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