映画の演劇性
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幻象《イメージ》
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演劇をどう定義づけるかにもよるが、私の考へる演劇の本質といふものからみれば、現在の発声映画は、その魅力の一半を演劇的なるものに負つてゐるやうに思ふ。
勿論、本質と本質とを対立させれば、演劇と映画とは正に相犯すことを許さぬ独自の美学をもつてゐる筈であるが、また同時に、物語の幻象《イメージ》化、或は、眼と耳に愬へる心理的感覚的リズムの流れといふ共通の表現手段による点で、少くとも、姉妹芸術中最も相似たるものといふことができよう。
特に、今日一般に優秀なりと目せられる西洋映画の大部分は、トーキーとしてまだその本質的な純粋性を発揮してゐず、云はゞ、無声映画の初期におけると同様、「舞台的なるもの」の協力を必要とする時代にあるかのやうである。「舞台的なるもの」とは何かといふと、第一に俳優の演技である。聡明で敏感で柔軟性に富む舞台俳優は、当分、映画に於ける、その地位を失ふまいと思はれる。つまり、舞台に立つて真に「人物を活かし」得る俳優は、スクリーンの上でも、ある役に扮して、真にそれを
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