活かす能力を恵まれてゐるわけだからである。
たゞ、俳優の演技のみならず、舞台とスクリーンとの根本的に異る美的生命は、前者がより多くの制約に従ひ、後者が、比較的自由な条件を与へられてゐるところから来るのであつて、それは、つまり、韻文と散文との相違の如きものである。この「韻文的制約」から生れる舞台美(時とすると舞台臭ともなる)の映画化は、誰でも気がつく通り、甚だ困りものである。
その意味において、映画はやはり時間芸術といふ一面において戯曲的リズムの法則に従ひ、伝統的制約を脱してゐる点で、小説的自由さを与へられてゐると云つて差支へない。小説及戯曲の映画化に際して、この二面的処理の適不適は最も重要な問題であらうと思ふ。
但し、こんな面倒な理窟をぬきにしても、映画はまだまだ演劇に手を引かれながら駄々をこねてゐる年齢である。少くとも西洋の演劇と西洋の映画との関係はさうである。日本は常に特殊事情が通用する国だからさうとばかりも行かぬやうである。日本の演劇は、まだ近代写実主義の洗礼を受けてゐない。驚く人もあるだらうが、厳密に云つてさうである。これが、映画を必ずしも妹扱ひにできぬ理由である。あべこ
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