企図するやうな恍惚の世界にはいれないでせう。
左団次の無明の太郎はやりにくさうです。無理はありません。芝鶴の楓は、あれだけ喋舌つて喋舌り甲斐のない役でした。寿美蔵は人形でも出来る役を引受けて、さぞ不満でせう。松蔦は、これも、あの科白だけでは、どうにもしやうがないでせう。
菊池氏の『浦の苫屋』は、誠に徹底した通俗劇だと思ひました。菊池氏がさういふつもりで書かれたのかも知れません。かも知れないなどゝ云ふのが失礼に思はれるくらゐ、さうらしいのです。見物が低級だと云ふ作者側の云ひ分もあるでせうが、わかり易い芝居と云ふ以外、これはまた、何といふ見物の見くびり方でせう。
死んだと思つた亭主が不意に帰つて来ると云ふ題材は、古今の物語りに用ひ古された題材で、而も見方によつては、いつまでも新しい題材に違ひありません。モオパツサンの『帰村』は、此の主題を取扱つた最も深刻な、同時に最も軽妙な、優れた喜劇のもつ涙、さう云ふ味に富んだ好短篇ですが、モオパツサンは流石に、死んだ夫が不意に帰つて来る事実だけで読者の心を釣らうとは試みませんでした。
『浦の苫屋』の作者は、久六、杢兵衛、おまちの性格描写を閑却して、単に、三角関係によつて生じる月並な争闘心理を、不用意に暴露させ、陳腐な悲劇的結末に、平気で見物を引ずり込まうとしてゐます。従つて、全篇を通じて作者の努力してゐるのは、最後の場面に必然性を与へることだけと云つてもいゝくらゐです。殊に気になるのは、或ることを云ふため、或ることが起るために、絶えず見え透いた準備的伏線が張つてあることで、少し物わかりのいゝ見物は見物の方が先へ行つて待つてゐます。殊に不手際と思はれるのは、見物が先へ行かうとするのを、無理矢理に引止めて置かうとする作者の手管《てくだ》です。見物がついて行けないでも困りますが(それもかまはないと云ふ作者なら別です)もう少し、見物にも考へる余地を残して置いて貰ひたいと云ふ気がします。言葉の裏の言葉、事件の裏の事件を、作者の心の中にまで少しはいつて、見物がひとりでそれを判断し、洞察し翫味するところに新しい芝居に対する新しい見物の要求があるのではないかと思ひます。
然し、こんな理屈をぬきにして誰の作とも知らず、何時頃の作とも知らず、たゞ、左団次が寿三郎を組み敷いて、『わしを斬つてお互の苦しみが……』と云ふあたりへ来ると、変に喉がひつ
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