懐かし味気なし
五年振で見る故国の芝居
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巴里《パリー》
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 本郷座の夜の部を見て何か言へといふ注文なのですが、私はまだ厳密な意味で、他人の作品を批評し得る自信はありません。
 云ふまでもなく、新しい本郷座の舞台で谷崎、菊池両氏の新作が左団次一派の俳優によつて上演されると云ふ事実は、私の好奇心を惹くに充分でした、実は、昨年の夏日本に帰つて以来、まだ一度も、芝居小屋の木戸を潜らなかつたのです。巴里《パリー》で過ごした三年あまりは、殆ど毎日、役者の顔を見てゐたのに、なぜ、日本に帰つて来て芝居を見に行かないかと云ふと、旧劇はまだ之はと思ふ出しものがないし、新派は初めから大きらひですし、新劇はどれが佳《よ》いのかわからないで行く気になれず、と、まあかういふわけでした。
 新しい劇作家が、旧い時代を背景にして、新しい言葉で、旧い感情を、新しい形に盛り上げ、旧劇の役者を使つて新劇流の演出をやらせ、それで旧い見物も新しい観客も、ひつくるめて感心させようとする傾向が、現代日本の劇壇に可なりの勢力を占めてゐるやうに思はれます。
 ほんとうに旧いものを尊ぶ人、ほんとうに新しいものを求める人が、それほど少くなつたのでせうか。
 それはまあいゝとして、谷崎とか菊池とか云ふ新時代の人気ある少壮作家が、どうしてもつと妥協のない作品を発表しないんでせう。両氏の文学的才能を充分に認め、その或る作品に対しては多大の敬意を払つてゐるのですが、今度のものは、何《いづ》れも感心が出来ないやうに思ひます。
 先づ『無明と愛染』ですが、これは第二幕の初め、奥の間で愛染の声が聞えるまでのやゝ引締まつた場面を除いては、全然劇的でありません。素読をする為めには流暢なあの文章が、如何に舞台を退屈にしてゐるか、如何に暗示的効果に乏しいか、そして如何に非音楽的であるかは、誰しも気のつく事であらうと思ひます。勿論、此の劇の欠陥は文体ばかりにあるとは云ひません。人物が悉く平面的で、時には空虚な感じさへします。各人物の言葉に盛られた感情なり思想なりが、その心理的境遇の推移と歩調を合せてゐない、これは劇的作品の致命的弱点であらうと思ひます。
 此の種の主題を取扱ふならば、作者はもつと豊富な、大胆な、そして殊に理知的な想像力を働かせなければ、見物は作者の
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