男甲 もし、もし、わたし、楠見です。どなたですか。
男乙 ……(受話器を耳より放し、途方に暮れる)
男甲 もし、もし、わたしに御用ですか、家内に御用ですか。
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女、恐る恐る電話に近づく。
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女 どら、あたしに貸して御覧なさい。この電話、よく聞えないのよ。(受話器を男甲より受取り)もし、もし、こちら、楠見でございますが……。もし、もし……。
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この時、男乙、再び受話器を耳に当てる。男甲、元の席に帰り、また新聞を読む。
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女 どうしたんだらう、ちつとも聞えないわ。間違ひか知ら……もし、もし、もし、もし……。
男乙 あゝ、やつと通じた。僕だよ……。大丈夫かい。もう一度だけね、これでおしまひだ。大将、なんにも気がついてやしまいね。
女 あ、さやうでいらつしやいますか。さあ、如何でございますか……。
男乙 話してもいゝね。もう、寝てたの?
女 どういたしまして……。
男乙 迷惑だつたら、かまはないよ。そつちから切つてくれ給へ。
女 まあ、迷惑だなんて、そんな御心配は、決して……でも……。
男乙 うん、それや無論、わかつてるよ。だから、こんなに急いでるんぢやないか。出来ることなら、一口で、なにもかも云つてしまひたいくらゐだ。僕は、君にとつて、邪魔な人間でありたくないんだ。どういふ意味でゝも、なるだけ遠くに離れてゐようと思ふんだ。しかし、僕たちの別れ方は、あんまり理想的すぎた。あんまり、美しい余韻がありすぎたんだ。眠つてゐる僕の腕から、そうつと抜け出して行つた君を、僕はまだ、夢の中で抱いてゐるんだ。可笑しい、こんな云ひ方をするのは……だが、ほんとに、さうなんだ。
女 それはもう、お察しいたしますわ。でも先程、奥様からお電話をいたゞきました時は、そんなお話は、ちつともなさいませんでしたけれど……。
男乙 我慢してたのさ。云つてもしようがないと思つたからさ。でも、僕は、難題を持ち出さうつていふんぢやないよ。それは安心し給ひ。君に是非、云つて置きたい、いや、寧ろ、知らして置きたいことつていふのは、つまり……。
男甲 なんの話だい……いつまでも……。
女
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