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長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]

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貢  これで、先生たちが、同時に、われわれから、非常に遠い処へ行つてしまふやうな気もするが、それと反対に、何時までも、この辺をうろうろしてゐて、なかなかわれわれの頭の中から消えて行きさうもないつていふやうな気もするんだ。
牧子  どつちにしても、あんまり……。
貢  うん。それや、まあ、どうでもいいさ。(間)おい、人が帰つて来たら、茶ぐらゐ飲ませろ。それから、此の間から云つてるぢやないか、此の電球をもつと大きいのと取り換へようつて……。
牧子  兄さまこそ、序に、買つて来て下さればいいんですわ(起ち上る)
貢  それがいけないんだ。自分で家の中をキチンとしようと思はなくつちや……。ねえ、もう少し、ここだつて、家らしくできるだらう。
牧子  お茶は、ただのでよろしいんですか。
貢  そんなことも、自分で考へろよ。
牧子  (出で去る)
貢  (頭を抱へる)

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長い間。
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貢  (何となく落ちつかぬ様子で、室内を歩きまはる。時々立ち止つて、耳を澄ます。何を聴かうとしてゐるのかわからない。が、さういふ動作の後で、常に、悩ましげな表情が浮ぶ)
牧子  (紅茶を運んで来る)お湯が少しぬるいんですけれど。
貢  もう欲しくない。
牧子  (椅子に倚り、途方に暮れてゐる)
貢  何も考へることはないだらう。お前にはお前、おれにはおれの生活がある。仕事がある。どうしてそつちを向くんだい(呶鳴るやうに)こんなことぢや、駄目だよ、何時までたつたつて。
牧子  (ハツとして、そつちを振り返へるが、その眼は、反感といふよりも、寧ろ憐憫の情に近い色で、寂しく曇つてゐる)

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長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]

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貢  (思ひ出したやうに書架の中から、恐らく手当り次第であらう、書物を一冊引抜き、肱掛椅子に投げかかるやうにして、その頁を繰りはじめる。勿論、それは、言葉の調子を変へる準備であつたに違ひない)事務所の電球を外して来てくれないか。
牧子  (素直に立つて出て行く)
貢  (書物をテーブルの上に投げ出し、左の靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、足の指をいぢる)
牧子  (電球を持つて来る。此の光景に聊か意外らしい一瞥を投じた後)電球、取換へませうか。
貢  ああ。
牧子  (電球を取りかへる。貢の側に近寄り)マメですか。
貢  ああ。
牧子  絆創膏か何か持つて来ませうか。
貢  それより、飯粒を持つて来てくれ、針と……。
牧子  そんなことなすつてよろしんですの。
貢  いいんだよ。
牧子  (飯粒と針とを取りに行つて来る)
貢  (針でマメを潰す。その上に飯粒を塗る。そして、紙片を張りつける)
牧子  (この間、ぼんやり、傍に立つてゐる)
貢  お前は、何か、することはないのか。
牧子  ……。
貢  自分の用事はないの。
牧子  いいえ、別に……。
貢  可笑しいね、今夜に限つて、どうして、おれも、お前も、なんにもすることがないんだらう。
牧子  今夜、兄さまのお留守の間に、しようと思つたことはありますのよ。
貢  なんだ、どんなこと……。
牧子  (椅子にかけ)手紙を書かうと思ひましたの。
貢  何処へ?
牧子  お友達のとこ。
貢  友達……? どんな友達……? 誰……?
牧子  より江さんと同じくらゐ仲のよかつたお友達……。
貢  やつぱり、独りでゐるの。
牧子  一昨年までは独りでゐるつていふ話でしたわ。
貢  一昨年まで……。ふむ……。ああ、何時か、何処かで会つたつていふ……。
牧子  ええ、庄司さん、……。
貢  書いたらいいぢやないか。東京にゐるの。
牧子  もとの処にゐますかどうですか……。
貢  学校へ聞き合せればわかるだらう。(間)こつちから手紙をやれば、よろこぶだらうと思ふやうな奴もゐないな、おれの仲間にや……。神谷ぐらゐのものかな……。あいつなんか、もう子供の二三人もこさへてるだらう。案外近所に住んでゐて、知らずにゐる奴があるかもしれないね。
牧子  より江さんなんか、それでしたわ。
貢  此処の前なんか通らない奴でさ。
牧子  さうですわ。

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長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
貢  あしたはと……。あいつを植ゑ替へてと……。
牧子  ……。
貢  今夜は、もう寝てもいいんだが、寝るには惜しい晩だな。――風が出て来たね。
牧子  ……。
貢  何か、かう、事件でも起りさうな気がするな。
牧子  事件が起つてるぢやありませんか。
貢  こつちにもさ。――ぢつと待つてれば、何かやつて来さうな気がするんだ。お前、そんな気がしないかい。
牧子  しますわ。
貢  ね、するだらう。変なもんだね。こんなものかねえ。
牧子  ……。
貢  今夜、一晩、起きててみようか。ここに、かうしてて見ようか。何かしら、あるよ、たしかに……。
牧子  いやですよ、そんなことなすつちや……。
貢  兎に角、これは大したことに違ひないよ。四つの魂が、此の月の光の中で、ダンス・マカアブルを踊るかもしれないよ。おれは、それが見たいね。一寸でもいいから見たいね。
牧子  なんのことですの、それは……。
貢  静かに眠ればいいさ。(間)さもなければ、大きな声で歌がうたへるか。(間)どつちもむつかしさうだね。それぢや、どうしよう。(間)かうしてるよりしかたがないぢやないか――かうして、ぢつとしてゐるより……。(椅子の背に頭をもたせかける)
牧子  (静かに涙をふく)
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[#地から5字上げ]――幕――



底本:「岸田國士全集2」岩波書店
   1990(平成2)年2月8日発行
底本の親本:「屋上庭園」第一書房
   1927(昭和2)年5月25日発行
初出:「中央公論 第四十二年第一号」
   1927(昭和2)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:tatsuki
校正:Juki
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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