ぼんやりその方を見てゐるが、思ひ出したやうに、くるりと正面を向くと、両臂をテーブルの上に突き、両手で顎を支へながら、何事か瞑想に耽る。此の間、貢とより江の姿は、現れたり、隠れたりする。長い間。牧子は、突然、テーブルを離れるが、何となくそはそはした様子で、茶器を片づけたり、窓から外を見たり、鏡の前に立つて髪を直したり、つくづく手の甲を眺め入つたりなどする。再び長い間。やがて、また、彼女は、書架の間より写真帖を取り出し、その頁を繰り始める。そして、低く、「西原」「西原」と云つて見る。それは、消えかけた記憶を呼び覚まさうとするものの如くである。また写真帖を繰る。一つの写真を長く見てゐる。外の足音に驚いて、写真帖を元の処にしまふ。貢、続いて、より江現る)
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牧子  外は寒いでせう。
より江  温室から出るのがいやでしたわ。さあ、もうお暇しなくつちや……。
貢  まあいいでせう。
牧子  ほんとに、おうちさへよければ……。
より江  いいえ、遅くなると、やつぱし母一人ですから……。それに、あの辺は、それや、寂しいんですのよ。
貢  お送りしませうか。
より江  まだ大丈夫ですわ。ぢや、御免遊ばせ。また、いづれ近いうちにお邪魔させて頂きますわ。
牧子  そんなこと仰しやらないで、毎日、是非……。
より江  (笑ひながら)お兄さまのお留守の時を見はからつてね……。
貢  どうしてです。え、どうして……。

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(より江を送つて、貢、牧子、出づ)
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貢の声  さよなら。
より江の声  さよなら。

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(やがて、貢現る)
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貢  (あたりを見廻しながら)此の応接間も役に立つたね。(間)おい、牧子、一寸来て御覧(ポケツトから、色々の化粧品を取り出しながら)来て御覧つてば……。
牧子  (現れ)お腹が空いてらつしやるでせう。
貢  腹は空いてない。これ、どうだい。
牧子  (不審さうに貢のすることを見ながら)それ、なんですの、一体……。そんなもの、どうなさるおつもり……。
貢  おれがどうするわけもないぢやないか。お前に買つて来たんだよ。
牧子  あたくし、眉墨や頬紅なんか、もう使ひませんよ。
貢  使はなくつてもいいから、しまつとけ。
牧子  何を思ひ出して、こんなもの買つてらしつたの。
貢  いろんなことを思ひ出してさ。それはさうと、お前、西原は一人で帰つて来たよ。金髪美人を連れて来るだらうなんて云つてたけれど……。
牧子  まだ、どうだかわかるもんですか。後から追つかけて来ることだつてありますわ。
貢  疑ひ深い奴だなあ。しかし、あいつ、おれんとこなんかへ遊びに来るかねえ、久し振りでゆつくり話さうつて、今日、手紙を出しとかうと思ふんだが……。当分、神田の鳳仙閣つていふホテルにゐるらしい。一人ぢや、家を持つわけにも行くまいしね。奴さん、お前がかうしてるのを見たら、きつとびつくりするぜ。
牧子  (そんな話に興味はないといふやうに)ぢや、御飯の支度をして来ますわ。
貢  まだ早いよ。もう少し話をしようぢやないか。今日は、なんだか、いろんなことが新しく始まるやうな日だよ。今日まで、世間から離れて、たつた二人つきりで送つて来た暗い生活の中へ、思ひがけなく、同時に、二人まで、華やかな――さうだ――二人の華やかな友達が訪れて来るんだ。来たと云つてもいい。あいつは、きつと来るよ。
牧子  兄さま。より江さんをどうお思ひになつて……?
貢  気持のいい人だね、何してるの?
牧子  外国人の商店に働いてるんですつて……。売子みたいなもんかしら……。でも、下品なところはないわね。
貢  さうか、職業婦人だね。なんでもいいさ。お嫁に行つたつて云ふのはどうしたの。お前、昨夜、さう云つたらう。間違ひだつたの。
牧子  一度行つたんだけれど、うまく行かなかつたらしいの。
貢  はあ。なに、かまふもんか、そんなこと……。友達として交際《つきあ》ふ分にや、一度目だつて、二度目だつてかまやしない。
牧子  友達としてなんて仰しやらなくつてもいいぢやないの。
貢  まあ、さう、つけつけ[#「つけつけ」に傍点]云ふなよ。おれは、しかし、駄目だ。そんな気は起さない方がいい。それよりも、おれは、何時も云ふ通り、お前のことを心配してゐるんだ。それも、今までの生活では、何時どうといふ望みはなかつた。しかし、かうなつて来ると、お前の周囲にも、明るい、和やかな空気が漂ひ出すんだ。それを、お前も、感じるだらう。感じなければうそだ。感じるやうにしなくちやいけないよ。さうなれば占めたものさ。お前は、まだ若い。いや、若いんだよ。あの人を見ろ、より江さんを……。お前と同い年だらう。あれが、つまり、周囲の空気を感じてゐる証拠だ。お前も、あの通りになれ。――笑ふ奴があるか。
牧子  男つて呑気なものですわね。いくつになつても空想があつて……そして、その空想に相応した興奮があつて……。
貢  何を云ふか。おれは、今日、自分でも少しはしやぎ[#「はしやぎ」に傍点]すぎるなと思つてゐる。だからつて、別に、さういふ気持を抑へる必要はないぢやないか。これはほんの譬へだがね、今、より江さんがおれの細君になり、西原がだよ、お前の旦那さんになつてくれてさ、さういふ二組の新しい生活が始まるとしたら、お互に、よろこんでもいいぢやないか。それは、あり得ないことかも知れない。しかし、一昨日よりは、あり得べきことだらう。さういふ今日に廻り会つたことだけでも幸福ぢやないか。希望は逃げて行くもんだ。しかし、希望が一つ時でも、こつちを向いて笑つてくれれば、こつちも、大いに笑つてやればいいぢやないか。
牧子  そんな理窟は成り立つかどうか知りませんけれど、兄さまの、さういふ元気なお顔を見るだけでも、晴れ晴れしますわ。より江さんは、いろいろ事情はあるでせうけれど、きつと、そのうちに兄さまを好きになると思ひますわ。兄さまさへ、今のやうなお気持でいらしつたら、話は、とんとん拍子できまると思ひますわ。さうなつたら、あたくしも安心ですわ。ここのお勝手をあの方にお預けして、あたくしは、どつかへ働きに出ますわ。できれば、あの方の今の仕事を譲つて頂くやうにしますわ。
貢  そんなことをしなくつてもいいよ。お前はお前で、ちやんと、結婚をして、此の近所に家を持つさ……。さうするまでは、そんな、働きになんぞ出なくつたつて、一緒に家の仕事をすればいいぢやないか。あの人は、花をいぢるのが好きだつていふから、そつちの方を手伝つて貰つてもいいし……。
牧子  とにかく、もう少し、おつきあひしてみないとわかりませんわね。
貢  それもさうだ。急ぐことはないさ、下手に切り出して、もうここへ来ないなんて云はれちや、なんにもならないからね。それくらゐなら、始めからなんにも云はずにゐて、いつまでも、友達として出入をして貰つた方がいいよ。ああいふ友達は、是非、必要だ、われわれの生活には……。さつき、温室の中で、おれの手を見て、まるで木の根みたいな手だと云ふんだ。触つて御覧なさいつて、手を出したら、面白がつて、指で撫でたりなんかするんだよ。ああいふ友達は是非必要だね、われわれの生活には……。
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       第二場

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同じ応接間。
三月下旬――午後一時頃。
鉢植の草花――新しい裸体画――軽快な台ランプなど。

貢と西原とが話をしてゐる。
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貢  かうして、君が遊びに来てくれることは、僕らに、まだ生甲斐があるといふことを教へられるやうなものだ。ああして、君が、僕の健康の為めに乾杯してくれたのを見て、牧子は泣いてたよ。今も、どつかへ行つて、まだ泣いてるだらう。――あいつは、どうしてあんなに気が弱いのか、近頃泣いてばかりゐるんだ。(大きな声で)おい、牧子……。
西原  まあ、もう少し静かにさせておいてあげたらいいぢやないか。かうしてゐると、いろんなことに気を遣ふだらうからね。
貢  なにしろ、僕達は、あんまり世間から離れ過ぎてゐたよ。
西原  もうわかつたよ。いつまでもそんなことを云つたつてしやうがない。これからは、大いに交際を広くするさ。君も、早く細君を貰つたらいいぢやないか。
貢  (狼狽して)いや、なにしろ、あいつから片づけなくつちやね。
西原  君は、それで、食ふに困らない財産はあるんだし、早く妹さんを片づけて、一度西洋へでも行つて来るんだね。さうすると、人をあんまりこはがらなくなるよ。早く云へば図々しくなるよ、おれみたいに……。
貢  いや、その点ぢや、牧子なんかは、女だからでもあるが、久し振りで会つた君にさへ、あの通り、ろくに口が利けないんだからね。今日はこれで、四度目かい。まだ、昔通りにはいかないらしい。
西原  七年も別れてゐると、さうだらうな、こつちは、割合に、変つてないつもりなんだけれど……。
貢  だから、思つてることが云へない。云はうと思つてることを、みんな相手に云はれちまふんだ。
西原  それや、どうだか……。
貢  (云ひ直して)みんなでもないが、どうでもいいやうなことはさ(苦笑する)

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(牧子が盆にコツプをのせて現れる。なるほど、泣いた後とは察せられるが、見違へるほどの若々しさである。)
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牧子  こんなもの、お口にあひますか、どうですか……。
西原  今日は、あの方、見えないんですか。
牧子  あ、より江さん……。さあ、もう見えるかも知れませんわ。日曜の午後は、たいがい、見えますから……。
貢  君に会つたら、いろんなことを云はうと思つてたんださうだ。
西原  だれ?
貢  いや、こいつがね。ところが、君の顔を見たら、なんだか、気おくれがして……。
牧子  あら、気おくれなんて、そんな……。
西原  僕はね、牧子さん、向うに行つてる間、何処へも手紙を出さなかつたんですが、一度だけ、あなたの処へ絵端書をあげようと思つたことがあるんですよ。思つただけぢや仕方がありませんが、それは、そん時、丁度切手を買ふ金がなかつたんですよ。その絵端書つていふのは、多分、今でも何処かへしまつてある筈ですから、此のつぎ、持つて来ます。
牧子  まあ、なんの絵端書でせう。
西原  あなたに似た女優の絵端書ですよ。(貢に)よく似てるんだよ。仏蘭西の女は、そんなに毛唐臭くないからね。
牧子  まあ、あたくしに似た女優なんて、ゐますでせうか。
西原  女優つて云へば、牧子さん、一つ、女優になつてみませんか。
牧子  あたくしがですか。女優にですか。人が笑ひますわ。
西原  処が、笑ひません。なぜ笑はないかつて云へば、職業俳優には出来ない芝居をやるんです。僕たちは、今度、市民劇場つていふ遊動劇団をこしらへるんですよ。どうです、晩、七時から十時まで、暇はありませんか。
牧子  さあ……。でも、あたくし、舞台なんぞへ出たら、足がすくんぢまひますわ。
西原  さういふ役を振らうぢやありませんか。足のすくむ役を……(一同笑ふ)男はいくらもゐるが、女がゐないんでね。
貢  君は、どうして、あつちの女と結婚しなかつたの。
西原  どうしてつて、そんな無理なこと云つたつてしやうがないぢやないか。ねえ、牧子さん。
貢  さうかなあ。やつぱり、日本の女がいいかね。
西原  いや、さういふ意味ぢやなくね。しかし、今では、さう、云つとくよりほかあるまいね。
貢  君は、日本の女の、どういふ女がいい。
西原  さあ、そいつは、見てみないとわからん。
貢  見てみたうちでは、どんなのがよかつた。
西原  さういふつもりで見てみな
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