仕事は、向うから逃げて行くんだ。
三輪  そんなこともあるまい。

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やゝ長い間。
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並木  (突然、感慨めいた口調で)実際此処は面白い処だよ。あれを見たまへ――向うに見えるのが帝国ホテルだ。僕は、あすこの部屋に一度も寝たことはない。しかし、こゝへ上つて、あの屋根を見下ろすと、帝国ホテルがなんだといふ気になる。あれを見たまへ。あれが日本銀行だ。あの中には、さぞ大きな金庫があることだらうが、そんな金庫なんか埃溜《はきだめ》と同じことだ、さう思へる。これも、変な負け惜しみぢやない。つまり、此処へ上つて見ると、現実が現実として此の眼に映つて来ないんだね。一種のカリケチユアとして映るだけなんだ。
三輪  どうして、また、そんなことを云ひ出したんだい。
並木  それから、あの自働車を見たまへ。僕は、タクシイといふものに乗つたことは生れて二度しか無いんだが――一度は社長を東京駅へ送つて行つた時、家へ判を忘れたから取つて来いと云はれて、実用とか云ふ奴を呼んでくれた、その時と、もう一度は、これも社長の知合とかで、市会議員の候補に立つた男の選挙事務所へ手伝ひにやらされて、何をするのかと思つたら、自働車へ乗つてビラを撒いて歩けと云ふんだ、そん時と……。
三輪  へえ、君はそんなこともやつたのか。
並木  やつたさ。自働車、あれを見たまへ。僕は、自働車といふものは、大体に於て、われわれに泥をぶつかけて通る怪物だと思つてゐる。そいつが、ここから見ると、如何にも無邪気な玩具だ。不器用《ぶきつちよ》で、あはて[#「あはて」に傍点]者で、そのくせ、気取屋で、神経質だ。これは誠に愛すべき動物ぢやないか。
三輪  君は、今、社長つて云つたが、どこか会社へでも勤めてゐるの。
並木  会社といふわけぢやないんだ。小さな本屋さ。それでも、店の名前に社といふ字をくつつけてゐるもんだから、店のものだけは、社長だとか、社員だとか、まあさう云つてるわけなんだ。
三輪  本屋といふと、出版の方だね。
並木  まあさうだ。
三輪  そいつは面白いだらう。
並木  面白いもんか。それに、こゝにかうして立つてゐると、自分の足の下に、一つの美しい世界が感じられる。勿論、それは、贅沢な織物や、高価な装飾品が陳列されてあるといふ意味ぢ
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